話 2
瑠奈(ルナ)視点:
その夜、アルファの邸宅は、家というより美しく装飾された牢獄のように感じられた。
空気は、嘘で重く淀んでいた。
戒が玄関をくぐった時、彼の全身からセラの匂いがした。
香水じゃない。
彼女特有の狼の匂い――蜜とトリカブトが混じったような、甘ったるくまとわりつく匂いが、私の胃をむかつかせた。
それは親密な匂い。
長く、密接に触れ合わなければ移らない匂い。
私の番についた、他の雌の印。
私の内なる狼、まだほとんど知らない私の一部が、唸り声をあげて身を引いた。
「おかえり」
彼は、磨かれた石のように滑らかな声で言った。
そして、私を腕に抱こうと動いた。
私は一歩、後ずさった。
選択ではなかった。
反射だった。
私の体、私の魂そのものが、彼の接触を拒絶した。
かつて彼の存在を渇望した番の絆が、今や彼を毒の源と見なしていた。
戒の笑顔が揺らいだ。
彼は私の瞳に拒絶の色を見た。
「まだ遊園地のことで拗ねてるのか?子供っぽいぞ、瑠奈。お前が欲しがってたダイヤモンドのネックレスを買ってやる。街で一番高いやつを」
彼は、許しが金で買えると思っている。
私が、そんなに浅はかで、単純だと思っている。
私は、か弱く、小さな笑みを無理やり作った。
「ただ疲れてるだけ。長い一日だったから」
私は彼が期待する役を演じた。
従順で、少し不機嫌な番の役を。
彼はそれを信じた。
いつものように。
後になって、彼が隣で深く、規則正しい寝息を立てている間に、私はベッドからそっと抜け出した。
月明かりが窓から差し込み、彼の書斎へと続く道を照らしていた。
邸宅全体で唯一、常に鍵がかけられている扉。
鍵ではなく、純銀製の重厚で華美な錠で。
銀。
私たち人狼を焼き、力と治癒を妨げる唯一の物質。
この扉の向こうにあるものは何であれ、彼は他の人狼から隠しているのだ。
私は錠の隣にあるキーパッドの前に立ち、心臓を激しく打ち鳴らした。
震える息を吸い込み、数字を打ち込む。
私の誕生日。
私が初めての変身を迎えるはずの日。
彼の息子の誕生日と同じ日。
0-8-2-1。
静かな廊下に、カチリという小さな音が響いた。
銀の錠が、後退した。
扉が、開いた。
書斎は暗く、古い本と彼の匂い――杉と冬の霜の匂いがした。
明かりはつけなかった。
その必要はなかった。
私の人狼としての視力は、暗闇を切り裂いた。
私はまっすぐ彼の机に向かった。
一番下の引き出し、財務報告書の束の下に、革張りの写真アルバムがあった。
震える手で、それを開く。
最初の写真は、戒と妊娠中のセラだった。
二人とも、幸福に輝いている。
次は、戒が生まれたばかりの赤ん坊を抱いている写真。
ページをめくるごとに、私が全く知らなかった人生が記録されていた。
誕生日パーティー、家族旅行、クリスマスの朝。
そして、私はそれを見つけた。
息が止まるような写真を。
それは、家族の肖像画だった。
戒、セラ、そして小さなレオ。
その隣に立って微笑んでいるのは、私の両親だった。
元アルファの宗佑と元ルナのエレナ。
母は、セラの肩に腕を回していた。
彼らは知っていた。
全員が、知っていたのだ。
最初から、この嘘の一部だったのだ。
私の悲しみは、氷のように冷たい怒りへと変わった。
私は彼のノートパソコンに向かった。
もちろん、パスワードで保護されている。
絶望的な勘で、私は同じ数字を打ち込んだ。
私の誕生日。
アクセスが許可された。
私は全てを見つけた。
「レオ」と名付けられたフォルダには、彼の出生証明書、初めて歩いた時のホームビデオ、初めて話した言葉が収められていた。
「財務」と名付けられた別のフォルダは、陰謀の全貌を白日の下に晒した。
過去五年間、私の両親は一族の公的口座から数百万ドルもの資金を吸い上げていた。
その金は、ペーパーカンパニーに送金されていた。
会社の名前は、ギャラリー・アルテミス。
彼らは一族の資金を使い、私の番と、彼のもう一つの家族の、秘密の生活を賄っていたのだ。
私の、代わりのために。
私の手は、まるでそれ自身の命を持っているかのように動いた。
彼の机の引き出しからフラッシュドライブを見つけ、全てをコピーし始めた。
全てのファイル、全ての写真、全ての取引記録。
私は、父が誇りに思いながらも、本当の娘には決して教えようとしなかった古代人狼のルーン文字で、ドライブを暗号化した。
私は、独学でそれを習得していた。
最後のファイルがコピーし終わった時、鋭く、悪意に満ちた思考が私の心を貫いた。
それは私自身の思考ではなかった。
投影された、侵害だった。
セラが、戒の私への繋がりを使い、私の頭にイメージを送り込んできたのだ。
それは、私の両親が写っている家族の肖像画だった。
そして、セラの声が聞こえてきた。
毒と勝利に満ちた声。
『仲間外れにされて寂しいって聞いたから。自分の立場を思い出させてあげるわ、出来損ないのオメガちゃん。あなたは、都合のいい代用品。血筋だけが取り柄の、ただの繋ぎよ』
オメガ。
最下級の階級。
弱く、従順で、価値のない者に使われる言葉。
それが、最後の一押しだった。
悲しみは消えた。
傷心も消えた。
残ったのは、燃え盛る、全てを焼き尽くす炎だけだった。
彼らは私を繋ぎの道具にしたかった?
いいだろう。
白狼を檻に入れようとするとどうなるか、思い知らせてやる。
話 3
瑠奈(ルナ)視点:
翌朝、私は自分が何をすべきか分かっていた。
もっと多くのものが必要だった。
もっと多くの証拠。
もっと多くの情報。
彼らが私のために築いた檻を、この目で見なければならなかった。
ギャラリー・アルテミスに、忍び込む必要があった。
自分自身として行くのは不可能だ。
だから、私は別人になった。
使い捨ての携帯電話でギャラリーの人材派遣会社に電話をかけ、「希美(のぞみ)」という偽の身元を作り上げた。
仕事に必死な、ただの人間。
朱音が手伝ってくれた追跡不可能な口座から送金したわずかな現金で、私はその日の臨時清掃員として雇われることが保証された。
家を出る前に、庭からミントとローズマリーをひとつかみ摘み、その香りの良い油を肌と服にこすりつけた。
強いハーブの香りは、人狼なら誰でも識別できる白狼特有の私の匂いを隠してくれるだろう。
私は、人間のように匂うはずだ。
ビーニー帽を深くかぶり、使い捨てのマスクをつけた。
鏡を見ると、見知らぬ人がいた。
失われた世継ぎの瑠奈ではない。
未来のルナでもない。
ただの、怯えた目をした少女、希美。
恐怖は私を幽霊にした。
怒りは私を戦略家にした。
清掃員としてギャラリーに足を踏み入れるのは、非現実的な体験だった。
その場所は、私の一族の金で建てられた、彼らの裏切りの記念碑だった。
私は二階の清掃を割り当てられた。
そこには、プライベートオフィスも含まれていた。
セラのオフィスだ。
彼女の部屋のドアは開いていた。
部屋は豪華で、クリーム色と金色で装飾されていた。
そして彼女の机の上、銀色のフレームの中に、彼女と戒の写真が飾られていた。
彼らは、真のアルファとルナのように、フォーマルなポーズをとっていた。
彼らの絆を世界に宣言するための「カップル写真」。
これは単なる不倫ではなかった。
これは、影の政府であり、一族の長老たち――私自身の両親――によって認められた秘密の家族だった。
私は素早く働いた。
心が駆け巡る間、手は自動操縦で動いていた。
従業員の休憩室で、私はチャンスを見つけた。
私より少し年上の若い狼が、カウンターを拭いていた。
彼女の匂いはかすかで、その姿勢は従順だった。
オメガだ。
彼女の名札には「アンナ」と書かれていた。
「忙しい日ね」
私は、慎重に中立的な、人間の声で言った。
彼女は驚いて飛び上がった。
「あ!はい。最近、長老の方々がよくいらっしゃるんです」
「長老?」
私はゴミ箱を空にしながら、無知を装って尋ねた。
「ええ、元アルファの宗佑様はほとんど毎日ここにいらっしゃいます」
彼女は、共謀者のように身を乗り出して囁いた。
「ギャラリーの業務を自ら監督されていて。一族の評議会より、ここにいる時間の方が長いんじゃないかしら」
私の血が冷たくなった。
私の父。
「それに、元ルナのエレナ様は」
アンナは目を丸くして続けた。
「他の群れから、重要なアルファやルナの方々をいつもここにお連れになるんです。そしていつも、セラ様を『私がずっと欲しかった娘』として紹介なさるんですよ」
一つ一つの言葉が、物理的な打撃だった。
私がずっと欲しかった娘。
では、私は何だ?
押し付けられた娘?
その時、玄関のベルが鳴った。
私ははっと顔を上げた。
戒が、レオの手を引いて入ってきた。
セーラが彼の反対側にいて、満面の笑みを浮かべている。
私はすぐに背を向け、スプレーボトルと雑巾を掴み、ディスプレイケースの掃除に夢中になっているふりをした。
心臓が、肋骨に対して狂ったようにドラムを叩いていた。
「――いつになったら、あの子を追い出せるの?」
セラの声は、鋭い泣き言だった。
「あなたを共有するのに疲れたわ、戒。影で生きるのにも、もううんざり」
戒の返事は、焦れた、厳しいものだった。
「理由は分かっているだろう、セラ。我々が持つ全て、このギャラリー、レオの未来、全ては彼女にかかっている。白狼の世継ぎとしての彼女の地位に。彼女が完全に俺と結ばれ、彼女自身が世継ぎを産んだら、その時に対処できる。それまでは、辛抱しろ」
彼は私を利用していた。
私の血統のために。
世継ぎのために。
その認識は、息が詰まるようだった。
ここから出なければ。
私は出口に向かって動き始めた。
うつむいたまま。
もうすぐドアだった。
「お前」
声は低く、力に満ちていた。
アルファの声。
戒の声。
私は凍りついた。
背中はまだ彼に向けたまま。
「お前の匂いは知らないな」
彼は唸った。
「新入りか」
全身が緊張した。
彼はアルファだ。
彼の感覚は、普通の狼の千倍も鋭い。
ハーブは…十分だっただろうか?
私は顔を隠したまま、小さく頷いた。
「振り向け」
彼は命じた。
私はその場に留まった。
足が床に張り付いたように感じた。
彼の声が低くなった。
今や、紛れもない、抗いがたいアルファ・コマンドの力が込められていた。
それは空気を震わせ、私の筋肉、神経、意志を掌握した。
「振り向けと言った。そしてそのマスクを外せ。今すぐだ!」