話 1
婚約者の樹世は, 元カノの雅美が「余命数日」だと嘘をついた途端, 私を裏切った.
彼は私の祖母の形見である秘伝のレシピノートを雅美に渡し, 私との婚約を破棄して彼女と婚約すると約束した.
それだけでは飽き足らず, 樹世は私が雅美を突き飛ばしたと濡れ衣を着せ, 彼女が私の父の墓を破壊するのをただ黙って見ていた.
「純奈, 君を愛している! 僕を信じてくれ! 」と彼は叫ぶが, その言葉はもう私の心には届かない.
彼の裏切りで私の愛は冷たい灰と化し, 私は医学の道に戻ることを決意した.
これは, すべてを捧げた男に裏切られた私が, 戦地の医師として再生し, 彼らに無慈悲な結末をもたらす物語.
第1章
堀井純奈 POV:
彼の唇は, 私のものに柔らかく重なっていた. 腰にそっと置かれた彼の手の重みが心地よかった. 焼きたての抹茶大福の香りはまだ部屋に漂っていて, 私たちの未来への甘い約束のようだった. その時, 耳障りな着信音が静かな親密さを切り裂き, まるで壊れやすいガラスのようにその瞬間を粉々にした. 樹世がぴくりと体を硬くし, 少しだけ私から離れた. 暗がりの部屋に明るく光る彼の携帯の画面には, 見慣れた名前が表示されていた. 「雅美」.
私の心臓は, 突然冷たい水に凍りついたようだった. 雅美は, 樹世の元恋人だ. 私たちが婚約したと知って以来, 何度も彼に連絡してきていた. いつもは無視する携帯なのに, 彼はその時だけ, 画面をじっと見つめていた. まるで呪文にかかったように, 指がゆっくりと画面に伸びていった. 私の胸には, 嫌な予感が広がり始めた.
樹世は私の視線に気づいていないようだった. 彼の目は画面に釘付けになり, 微かな震えが彼の手から私に伝わってきた. 私は何も言わなかった. ただ, 彼の次の動きを固唾を飲んで見守っていた. その沈黙は, これから起こるであろう嵐の前の静けさのように, 重くのしかかっていた.
電話が繋がった瞬間, 受話口から漏れ聞こえる声に, 私の体は一瞬で凍りついた. 男性の声だった. 焦燥感と, 抑えきれない興奮が混じったような, 耳障りな声. 樹世の顔色が変わるのが分かった. 彼の目は大きく見開かれ, まるで信じられないものを見たかのように, 焦点が定まらない.
「…すぐに行きます」樹世はそう言って, 電話を耳から離した. 彼の声は震えていた. 一体何が起こったのだろう. 私の不安は, どんどん膨れ上がっていった. 彼は私に背を向け, 何かを隠すように小声で話し始めた. 日本語ではない言葉. 私には理解できない, でも緊急性を帯びた響きだった. 彼の声はさらに激しさを増し, まるで誰かをなだめるかのように, 必死の調子で話していた.
電話の向こうの相手は, 感情を抑えきれないようだった. その声は樹世の必死な言葉を遮るように, さらに荒々しくなった. 樹世が再び受話器を耳に戻すと, 彼の顔色はさらに蒼白になった. そして, 電話の向こうから, 衝撃的な言葉が私の耳にも届いた.
「…余命, 数日…」
まるで氷の刃が心臓を貫いたようだった. 余命数日? 誰が? 雅美が病気だということは知っていたが, そんなに深刻だとは聞いていなかった. 樹世の指が, まるで心臓の鼓動のように激しく携帯を握りしめている. 彼は電話を切ると, 私の方を振り向きもせず, 玄関に向かって走り出した.
「樹世, 待って! 」
私の声は届かない. 彼はもう私の言葉を聞いていなかった. 背中が小さくなり, やがてドアの向こうに消えた. 部屋には, 彼が出ていった後に残された, 冷たい沈黙だけが残った. 私はそこに立ち尽くし, ただ彼の残像を見つめていた. その時, 私の携帯が震えた. 樹世の携帯ではない. 私の携帯だ. 開いてみると, 雅美からのメッセージだった.
「これで, あなたはおしまい. 樹世は私のものよ. 」
メッセージには短い動画が添付されていた. 動画の中では, 雅美が薄く笑いながら, 樹世の腕に寄り添っている. そして, 樹世が電話で話している声がはっきり聞こえた. 彼は雅美の「余命数日」という嘘を信じ込み, 私の祖母の形見である秘伝のレシピノートを雅美に渡すことを約束していたのだ. 私の全身から血の気が引いた.
私は, その場で膝から崩れ落ちた. 彼の言葉, 彼の行動, そして雅美からのメッセージ. 全てが繋がり, 私を激しい絶望の淵に突き落とした. そうか, 彼は私を裏切ったのだ. 私の心を温めていたはずの愛の炎が, 一瞬にして冷たい灰燼と化した.
「馬鹿みたい…」と, 私は枯れた声で呟いた. これまでの私の献身は, 一体何だったのだろう. 彼を支え, 彼のためにすべてを捧げてきた日々が, まるで砂上の楼閣のように崩れ去っていく. 私の愛は, 彼にとって何の意味も持たなかったのだ.
私は震える手で, 床に落ちた携帯を拾い上げた. 画面の中の雅美と樹世の姿が, 私の心を深くえぐった. 彼との出会いを思い出す. それは, ちょうど一年前のことだった.
樹世は, 京都の老舗和菓子屋「梅原堂」の跡取り息子だった. 代々続く名家で, その名前は和菓子業界では誰もが知る存在. 一方, 私は地方の小さな洋菓子店の娘で, 祖母から受け継いだレシピノートだけが私の宝物だった. 私たちはまるで違う世界に生きていた.
彼と初めて会ったのは, ある洋菓子コンクールでのことだ. 私は無名の参加者で, 彼は審査員の一人としてそこにいた. 私の作った, 和菓子の技法を取り入れた繊細な洋菓子は, 彼の目を引いた. 彼は私に, まるで運命の出会いだと囁いた. 彼の情熱的な言葉に, 私はすぐに心惹かれた.
そこからの日々は, 夢のようだった. 樹世は私の才能を誰よりも理解し, 応援してくれた. 彼が交通事故で味覚と嗅覚を失った時も, 私は必死で彼を支えた. 彼の口に合うものを見つけるため, 何度も何度も試作を繰り返した. 伝統的な和菓子に, 洋菓子の精密な技術を応用する. それは, 祖母のレシピノートに記された, 私の秘伝の技だった.
私は彼のために, 毎日新しい和菓子を作り続けた. 彼の失われた感覚を取り戻すために, 五感を刺激するような, 記憶に訴えかけるような味を追求した. 樹世は, 私の作った和菓子を口にするたびに, 少しずつ笑顔を取り戻していった. 彼の目にかつての輝きが戻るたびに, 私の心は満たされていった.
あの頃, 彼は私の手を握り, 「純奈, 君は僕の光だ. 君なしでは, 僕は何もできない」と何度も言った. 彼の言葉は, 私の心を温かく包み込み, どんな困難も乗り越えられると信じさせてくれた. 彼は, 洋菓子職人としての私の夢も応援してくれた. いつか, 二人で力を合わせ, 新しい菓子作りをしたいと語り合った. 彼の隣にいられるなら, どんなことでも乗り越えられると, 私は心の底から信じていたのだ.
樹世の事故は, 彼の元恋人である雅美が運転する車との衝突によるものだった. その事故で, 雅美は軽傷で済んだ. 樹世の味覚と嗅覚が失われた時, 梅原堂の跡取りとしての地位は危うくなった. 多くのプレッシャーが彼にのしかかり, 彼は深く絶望していた. その時, 私が彼のそばにいた.
「純奈, 君だけが僕を救える. 君がそばにいてくれれば, きっと乗り越えられる」
彼の弱々しい声に, 私は胸を締め付けられた. この人を, 絶対に守り抜こうと誓った. 私は彼のために梅原堂の仕事を手伝い, 彼の感覚を取り戻すために私のすべてを捧げた.
彼の視覚が回復した後も, 彼は私を必要としていた. 「君が僕の目となり, 鼻となってくれる」と言って, 私に頼りきりだった. 梅原堂の家族からは, 私がただの洋菓子職人であるという理由で, 樹世との婚約を反対する声もあった. しかし, 樹世は毅然として私を守り抜いた.
「純奈がいなければ, 僕は梅原堂を継ぐことなどできない. 彼女こそが, 僕の未来だ」
彼はそう言って, 家族を説得した. その言葉を聞いた時, 私はこの先, どんなことがあっても彼についていこうと心に誓った. 彼が再び梅原堂の跡取りとして認められ, 私たちの結婚も間近に迫っていた. 私は, 彼との未来に何の疑いも抱いていなかった.
しかし, 雅美が再び樹世の前に現れてから, すべてが狂い始めた. 彼女は樹世の事故の原因を作った張本人であり, ライバル店の令嬢だった. 雅美は, 病気で味覚を失いつつあると嘘をつき, 樹世の罪悪感を刺激した. 最初は私も, 雅美が樹世を苦しめることを恐れて, 彼女を警戒していた. だけど, 樹世は彼女をただの昔の知り合いだと言い, 私を安心させた.
「純奈, 君は僕を心から愛してくれている. 雅美はただの友人だ」
彼の言葉を, 私は愚かにも信じていた. 雅美からの執拗な連絡が増えても, 私は彼を信頼しようと努めた. 雅美は私の存在を無視し, 樹世に頻繁に連絡を取り続けていた. 彼女の行動は私を苛立たせたが, 樹世は私に「雅美はただ寂しいだけなんだ. 可哀想に」と言い聞かせた.
私は, 彼の言葉を信じ, 雅美を軽視していた. だけど, 今日のメッセージと動画. そして, 電話の向こうで聞こえた「余命数日」という言葉. 雅美は, 樹世の罪悪感を利用して, 私から彼を奪おうとしているのだ. そして, 樹世は, その蜘蛛の糸のような嘘に, あっけなく絡めとられてしまった. 私の祖母の形見である秘伝のレシピノートまで, 彼女に渡そうとしているなんて.
心臓が, まるで冷たい石になったかのように感じた. あの優しい言葉, あの固い約束は, 一体何だったのだろう. 彼の瞳の奥に, 私だけが映っていると信じていたあの頃の私は, なんて滑稽だったのだろう.
私の愛は, 一方的な献身は, 彼にとってただの都合の良い道具だったのだ. 彼の感覚を取り戻し, 彼の地位を確立するために利用されただけ. そして, 用済みになれば, 簡単に捨て去られる.
私はゆっくりと立ち上がった. 体中の血が, 冷たい氷となって流れているようだった. 私の心は, 本当に死んでしまった. 彼の言葉も, 彼の優しさも, もう私には届かない. 私の愛は, 完全に裏切られた. もう, 終わりだ.
「梅原樹世, 私たち, もう終わりよ. 」
私の声は, 誰もいない部屋に虚しく響いた.
話 2
堀井純奈 POV:
樹世は, 昨晩から家に帰ってきていない. 私は, 彼の帰りを待つことも, 彼に連絡を取ることもなかった. もう, 何もかもどうでもよかった. 空っぽになった心は, 何の感情も抱かなかった. 朝になって, 私の携帯が鳴った. 画面には「藤川先生」の文字. 私のパティシエとしての才能を見出してくれた, 世界的なパティシエだ.
「もしもし, 純奈ちゃん. 元気にしてる? 」
藤川先生の穏やかな声が, 私の耳に届いた. 私は無理に笑顔を作って, 「はい, おかげさまで」と答えた. 元気なわけがなかった.
「実はね, 君に話があるんだ. 海外のコンクールで, 緊急の参加枠ができたんだ. 君なら, 素晴らしい結果を残せると思う」
彼の言葉は, まるで遠い世界の出来事のように聞こえた. コンクール? 私が? 今の私に, そんな気力はどこにもなかった.
「でも, 先生…」
私は声を絞り出そうとしたが, 言葉にならなかった.
「これはね, ただのコンクールじゃない. 戦地で食料を必要としている子供たちのための, チャリティイベントを兼ねているんだ. 審査員には, 世界の食料支援団体も名を連ねている. 簡単な道のりではないだろう. 危険も伴うかもしれない」
藤川先生の声は真剣だった. 危険. その言葉が, 私の凍りついた心を, ほんの少しだけ揺さぶった.
「私…行きます」
気づけば, そんな言葉が口から出ていた. 驚いたのは, 私自身だった. 行きます. 本当に? なぜか, そうすることが, 今の私にできる唯一のことのように思えたのだ.
「純奈ちゃん…君, 何かあったのかい? 」
藤川先生の声に, 心配の色が滲んでいた. 私の返事があまりにも唐突で, 彼を驚かせたのだろう.
「はい. もう, 樹世とは終わりです」
私の声は, まるで他人事のように平静だった. 彼との関係を断ち切る. その決意が, 私の中に確かなものとして芽生えていた.
「…そうか. 分かった. 君の覚悟, 受け止めよう. すぐに手続きを進めよう. 何も心配いらないから, 君は準備だけしていなさい」
藤川先生は, 私の決断を深くは追求せず, 全面的に受け入れてくれた. 彼の温かい言葉に, 心の中に小さな光が灯った気がした. 私は, この光を手放してはいけない.
携帯を置くと, 樹世からメッセージが届いていた.
「純奈, 心配かけてごめん. 雅美のことでね…近いうちに必ず埋め合わせをするから. 愛してるよ. 」
雅美のこと. 愛してる. その言葉が, 私の心を激しく揺さぶった. 怒り, 嫌悪, そして深い悲しみ. しかし, それらはすぐに麻痺していく. 彼の言葉は, もう私には何の力も持たなかった.
私は, 海外への渡航に必要な書類を準備し始めた. パスポート, ビザ, 健康診断書. 一つ一つ書類を揃えるたびに, 私の心は少しずつ整理されていくようだった. 私は, 新しい人生を始めるのだ.
私の実家は, 地方の小さな洋菓子店だった. 祖母は, その店を一代で築き上げた, 腕利きのパティシエだった. 私は祖母の背中を見て育ち, いつしか彼女のようなパティシエになりたいと願うようになった.
幼い頃, 私は体が弱く, よく病気にかかっていた. その度に, 祖母が作ってくれる甘いお菓子が, 私にとって何よりの薬だった. その時, 私は思った. 私も, 困っている人の心を癒せるようなお菓子を作りたい. そして, その延長線上に, 人の命を救う, 医者という夢があった. 医師になることを目指して, 私は猛勉強した.
樹世と出会う前, 私は医学部に合格し, 海外の大学への留学の誘いも受けていた. しかし, 樹世の存在が, 私の選択を大きく変えた. 彼は私の夢を応援すると言いながら, 結局は私をそばに置いておきたかっただけだった. 彼のそばにいるために, 私はそのチャンスを手放した.
私は医学の道でも優秀な成績を収めていた. 教授からは, 何度も海外での研究を勧められた. しかし, そのたびに樹世は, 私の体を心配し, 日本に留まるよう懇願した. 私は彼のために, その誘いを断り続けてきた.
だけど, 今の私は違う. 彼のそばにいる必要など, もうどこにもない. いや, むしろ, 彼の元から離れることが, 私の新しい人生の始まりなのだ. 私は, もっと大きな世界で, 自分の力を試したい. 誰かの役に立ちたい. それこそが, 私の本当の夢だった.
私の携帯が再び震えた. またしてもメッセージ. 今度は, 雅美が樹世の腕に抱きつき, 動画の中で得意げに微笑んでいる.
「樹世が, あなたとの婚約を解消して, 私と婚約するって約束してくれたわ. あなたなんかがいたから, ずっと苦しんでいたのよ, 樹世は. これでやっと, 彼も自由になれるわね. ありがとう, 純奈. 」
動画の音声も聞こえてきた. 樹世が雅美に, 「これで君も安心しただろう. 僕もようやく肩の荷が下りた」と優しく語りかけている. 私の心臓は, もう何も感じなかった. ただ, 冷たい水が流れ込むように, 感覚が麻痺していく.
雅美はさらにメッセージを送ってきた.
「私たちの結婚式は, 梅原堂で挙げることになったわ. あなたの祖母のレシピノートも, 樹世が私にくれるって. 私には, あなたの秘伝の技が必要なのよ. ふふ. 」
私の体が, 冷たい電流に打たれたように硬直した. 祖母のレシピノート. それは, 私の命よりも大切なものだ. 樹世は, それを雅美に渡す約束をした? 彼は, 私の心を, 私の魂を, 雅美に売り渡そうとしているのだ.
私は, 震える唇で「樹世…」と呟いた. 私の脳裏に, 彼が私にプロポーズした時の言葉が蘇った. 「純奈, 君は僕のすべてだ. 僕と結婚してほしい」. あの時の彼は, 一体誰だったのだろう.
彼の言葉は, 空虚な嘘だった. 私への愛など, 最初からどこにもなかったのだ. 私は, 彼にとって, ただの道具に過ぎなかった. 彼の味覚と嗅覚を取り戻すための道具. 彼の跡取りとしての地位を守るための道具. そして, 雅美の病を癒やすための, 都合の良い道具.
私は, 携帯を強く握りしめた. 彼の虚偽, 彼の裏切り, そして私の愚かさ. すべてが, 私を深く深く絶望の淵に突き落とした.
私は, 病院に辞職願を提出した. 同僚や上司は引き止めたが, 私の決意は固かった. もう, この国に, 彼がいるこの場所に, 私を繋ぎ止めるものは何もない.
再び携帯が鳴った. また雅美からの動画だ. 今回は, 樹世が梅原堂の店主と雅美の父と共に, 和やかに談笑している様子が映し出されていた. 雅美は, 樹世の隣に座り, 幸せそうに微笑んでいる. そして, 樹世が雅美の手に, 私の祖母の秘伝のレシピノートを握らせる瞬間が, はっきりと映っていた.
動画の中の樹世は, 雅美の手を優しく握り, 「これで, 梅原堂と高畑製菓は, 共に新しい未来を築けるだろう」と, 誇らしげに語っていた. 雅美は, その言葉に満足げに頷き, 私に向かって, 嘲るような視線を投げかけていた.
その瞬間, 私の心は, 本当に死んだ. 魂が, 体から抜け落ちていくような感覚. もう, 痛みも, 悲しみも, 何も感じない. ただ, 冷たい虚無だけがそこにあった.
私は, アパートに帰ると, 樹世との思い出の品をすべて片付け始めた. 彼からもらったプレゼント, 彼と撮った写真, 彼との手紙. すべてを箱に詰め, ガムテープで封をした. もう, 彼の痕跡など, 何もいらない.
その時, 玄関の鍵が開く音がした. 樹世が帰ってきたのだ. 私の心臓は, 何の感情も抱かなかった. まるで, そこに存在しないかのように.
「純奈, ただいま. 遅くなってごめんね」
樹世の声が, 私の耳に届いた. 私は何も答えない. ただ, 黙って箱にガムテープを貼っていた.
「どうしたんだい? こんな時間に片付けなんて」
樹世の声に, 戸惑いの色が滲んでいた.
「もう, いらないものばかりだから」
私の声は, ひどく冷たかった. まるで, 氷の塊のようだ.
「いらないもの? 一体何を言っているんだい? 」
樹世は, 私が詰めた箱を覗き込もうとした.
「私たちの思い出よ. もう, 私には必要ない」
私は, 彼の目を真っ直ぐに見つめた. 彼の目に, 戸惑いと, ほんの少しの不安が浮かんでいるのが見えた.
「純奈…君, まさか…」
樹世は, 私の言葉の真意に気づき始めたようだった.
「私たちは, もう終わりよ. あなたと私の間には, もう何もない」
私の声は, 確固たる決意を込めていた.
「何を言ってるんだい, 純奈! 何か誤解しているんだ! 僕は君を愛している! 」
樹世は私の肩を掴んだ. 彼の指が私の肌に触れた瞬間, 私は吐き気を催した. 彼の嘘にまみれた言葉, 彼の裏切り. すべてが, 私を深く深く傷つけていた.
「やめて! 触らないで! 」
私は, 彼の手を払いのけた. 私の体は, 彼の触れることさえ拒絶していた.
「純奈…君, まさか…赤ちゃんができたのかい? 」
樹世は, 私の青白い顔と, 憔悴しきった様子を見て, 突然そう言い出した. 彼の目に, 一瞬の喜びが浮かんだように見えた.
「まさか. そんなはずないでしょう」
私は, 冷たく言い放った.
「そうか…よかった. でも, もしできていたら, 君には堕ろしてほしかった. 今はまだ, 僕たちの状況は複雑すぎるからね」
樹世の言葉に, 私の心は再び凍りついた. 彼は, 私の子どもさえも, 自分の都合で決めようとする. 雅美には優しいのに, 私にはこんなにも残酷な言葉を吐く.
「冗談よ. そんなこと, 絶対にしないわ」
私は, 精一杯の平静を装って言った. 彼に, 私の本当の気持ちなど, 決して悟らせてはいけなかった.
「ああ, そうだね. 君らしいよ, 純奈」
樹世は, 安心したように笑った. 彼は, 私の言葉の裏に隠された真意に, 全く気づいていなかった.
「お腹空いただろう? 何か作ってあげるよ」
彼は, 私の言葉に安堵し, キッチンに向かった. その背中に, 私は虚しい笑みを浮かべた. 彼は, 本当に何も分かっていない.
私は, 彼の虚偽の優しさに, もう何の感情も抱かなかった. 彼の作る料理を食べる気にもなれなかった. 彼の優しさは, 刃物のように私の心を切り裂く.
「樹世, 今日は疲れているから, 一人で食べたいの」
私は, 冷たく言い放った. 樹世の顔に, 少しだけ失望の色が浮かんだが, 彼はすぐにそれを隠した.
「そうか. 分かったよ. おやすみ, 純奈」
彼はそう言って, 部屋を出て行った. 彼の足音が遠ざかるのを聞きながら, 私は確信する. 彼は, 雅美の元へ向かったのだ.
私の携帯に, 再びメッセージが届いた. 雅美が, 樹世と梅原堂で食事をしている写真. そして, その写真には, こんなメッセージが添えられていた. 「樹世が, 私のためにお料理を作ってくれたの. あなたは, もういらないのよ. 」
私の心は, 本当に空っぽだった. もはや, 悲しみも, 怒りも感じない. ただ, 遠い場所で, 冷たい風が吹き荒れているような感覚. 私は, もう, 彼を愛していない.
「さようなら, 梅原樹世. 」
私は, 誰にも聞こえない声で呟いた. もう, 私の心は, 完全に決まっていた.
話 3
堀井純奈 POV:
樹世からの電話は, 毎日, 決まった時間にかかってきた. 彼は, 私の安否を, まるで義務のように確認していた. 私は, もう彼の声に何の感情も抱かなかった. ただ, 彼の言葉を, 機械のように受け流すだけだった. 今日は, 父の墓参りの日だった.
「純奈, 準備はできたかい? 迎えに行くよ」
樹世の声が, 携帯のスピーカーから聞こえてきた. 私は, 準備していた線香と花を手に取った. 父は, 私がまだ小学校に上がる前に亡くなった. 彼の墓は, 母方の実家がある, 海辺の小さな町にあった.
私は, 彼の言葉にうんざりしていた. 彼が私に, あれほど虚偽の約束をしたことを思うと, 胸が締め付けられるようだった. 私は, 彼の言葉を信じて, どれほどの時間を無駄にしてきたのだろう. 後悔が, 喉の奥から込み上げてくる.
「ええ, もう大丈夫よ」
私は, 努めて平静を装って答えた. 声が震えないように, 必死で感情を抑え込んだ.
「純奈, どうかしたのかい? 声が沈んでいるようだけど」
樹世は, 私の異変に気づいたようだった. 全く気づかないわけではなかったのか. だが, 彼の心配も, 私にはもう届かない.
「何でもないわ. 早く行きましょう」
私は, 冷たく言い放った. これ以上, 彼に私の心を見透かされてはならない.
「そうかい? 何かあったら言ってくれよ. 僕には何でも話してくれていいんだから」
樹世は, いつものように優しい声で言った. だが, その言葉は, 私にはただの空虚な響きにしか聞こえなかった. あの時も, 彼は同じように言った. そして, 私を裏切った.
「…そうね」
私は, それ以上何も言わなかった. 沈黙が, 車の中に重くのしかかった.
私たちは, 海辺の小さな町に到着した. 潮風が, 私の頬を冷たく撫でる. 私は, 樹世の助けを借りずに, 一人で車を降りた. もう, 彼に頼る必要など, どこにもない.
樹世が私の隣に並び, 私たちは二人の足で墓地へと向かった. 小道を歩くたびに, 私の心は締め付けられるようだった. 父の墓が, 遠くに見えてきた. 白い墓石に刻まれた父の名前が, 私の目に飛び込んできた. 私の心は, 激しい痛みに襲われた.
「お父さん…」
私は, 墓石に手を触れた. 冷たい石の感触が, 私の指にじんわりと伝わってきた. 私は, 父に, 今の私の苦しみを打ち明けたいと思った. だけど, 言葉にならなかった. ただ, 涙が, とめどなく溢れ出した.
樹世は, 私の後ろに立ち, 静かに私を見守っていた. 彼は, 何も言わなかった. ただ, 私が泣き止むのを待っているようだった. 私は, 父の墓前で, 静かに手を合わせた. 樹世も, 私の隣で, 手を合わせてくれた. 彼のその行動も, 私にはもう何の感情も抱かせなかった. ただ, 虚しく, 冷たいだけだった.
「お父さん, 私, 樹世と結婚します」
樹世が, 突然そう言った. 彼の声は, まるで私の心を嘲笑うかのように, 墓地に響き渡った. 彼は, まだ私との関係が終わっていないと, そう思っているのだ. 彼の虚偽の言葉に, 私の心は, 怒りに震えた.
「嘘よ. そんなはずない」
私の心は, 激しく叫んだ. 私は, もうこの男を信じない.
私は, 小さな包みをポケットから取り出した. それは, 祖母が私にくれた, お守りだった. 祖母の秘伝のレシピノートと, お揃いの柄が刺繍された, 大切なお守り.
「純奈, それは…」
樹世が, 私の手元を覗き込もうとした.
「これは, 私にとって, とても大切なものなの」
私は, 彼の言葉を遮るように言った. このお守りは, 祖母の魂が宿っている. 雅美に奪われたレシピノートの代わりに, このお守りだけは, 私が守り抜かなければならない.
「ああ, 覚えてるよ. 君がいつも大切にしていたものだね」
樹世の目に, 懐かしむような色が浮かんだ. 彼は, 本当に何も分かっていない. 私の心の中の, 深い絶望と, 彼への憎悪に.
私は, お守りを父の墓石にそっと置いた. その時, 私の背後から, 聞き覚えのある声が聞こえてきた.
「あら, こんなところで何をしているのかしら? 」
その声に, 私の体は一瞬で硬直した. 雅美だ. 彼女は, まるで獲物を狙うかのように, 私の方に近づいてきた. 白いワンピースに身を包み, 優雅な笑みを浮かべている. 彼女の隣には, なぜか, 樹世の母親が立っていた.
樹世は, 雅美の出現に, 明らかに動揺しているようだった. 彼の顔色は, 一瞬で蒼白になった. 私は, 彼の動揺に何の感情も覚えなかった. ただ, 私の心は, さらに冷たくなっていく.
私は, 雅美の存在を無視し, 父の墓に向き直った. もう, 彼女の挑発に, 付き合うつもりはない. 私は, もう一つ, 大切なものを取り出した. それは, 幼い頃, 父と一緒に拾った, 小さな貝殻だった. 父は, この貝殻を「希望の貝」と呼んでいた.
「お父さん, 私, あなたに誓うわ. もう, 誰にも, 私の心を傷つけさせない. 私は, 私の力で, 新しい人生を切り開く」
私は, 貝殻を握りしめ, 心の中で父に語りかけた. 私の声は, 震えていた. だが, その声には, 確固たる決意が込められていた.
「あら, その貝殻, 可愛らしいわね. 私にちょうだい? 」
雅美の声が, 私の耳に届いた. 彼女は, 私の手から貝殻を奪い取ろうとした.
「これは, あなたには渡せない」
私は, 雅美の手を振り払った. 私の声は, 冷たく, はっきりとしていた.
「どうして? 私には, 樹世の愛があるもの. あなたには, もう何も残っていないじゃない」
雅美は, 嘲るように言った. 彼女の言葉は, 私の心を深くえぐった.
「樹世, 雅美が欲しがっているわ. あげてちょうだい」
樹世の母親が, 冷たい声で言った. 彼女の言葉に, 私は愕然とした. 彼女もまた, 私を裏切ったのだ.
私は, 樹世の顔を見上げた. 彼の目に, 葛藤の色が浮かんでいた. 彼は, 私と雅美の間で, どちらを選ぶべきか迷っているようだった. 私の心は, 激しい痛みに襲われた. 彼の優柔不断な態度に, 私は深く失望した.
「樹世, これは…父との思い出なの. 私にとって, 何よりも大切なものなのよ」
私は, 震える声で言った. 私の目には, もう涙はなかった. ただ, 冷たい絶望だけがそこにあった.
「純奈, 頼む. 雅美のためだ. 彼女は病気なんだ…」
樹世は, 私に懇願するように言った. 彼の言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 彼は, 私の気持ちなど, 何も分かっていない.
「…あなたにとって, 私は, 何だったの? 」
私は, 彼の目を真っ直ぐに見つめた. 私の声は, ひどく冷たかった.
その瞬間, 雅美が突然, 咳き込み始めた. 彼女は, 胸を押さえ, 苦しそうに顔を歪めた.
「樹世…苦しいわ…」
雅美は, 樹世に寄りかかり, わざとらしく演技をした.
「雅美! 大丈夫かい! 純奈, もういいだろう! 雅美に渡してやってくれ! 」
樹世は, 雅美を抱きかかえ, 私に怒鳴りつけた. 彼の目には, 私への怒りさえ浮かんでいた.
私の心は, 本当に死んだ. 彼の言葉は, 私を完全に突き放した. 私は, 貝殻を雅美に差し出した. 私の手は, 微かに震えていた.
「ありがとう, 純奈. これで, 樹世は完全に私のものね」
雅美は, 貝殻を受け取ると, 得意げに微笑んだ. 彼女は, 樹世の腕に抱きかかえられ, そのまま墓地を後にした.
私は, その場に立ち尽くしていた. 冷たい風が, 私の頬を撫でる. 父の墓石だけが, 私のそばにあった.
「ごめんなさい, お父さん. 私, あなたの大切な貝殻を奪われてしまったわ」
私は, 墓石に手を触れ, 心の中で父に謝った. 私の心は, 冷たい氷の塊になっていた. もう, 涙も出ない.
私は, もう, この国に, 彼がいるこの場所に, 私を繋ぎ止めるものなど何もない. 私は, 私の人生を, 私の力で切り開くのだ.
「もう二度と, あなたに会うことはない」
私は, 心の中で樹世に誓った. 私の決意は, 固い岩のように揺るぎなかった.