話 1
「時生、すごく痛い!やめて!」
ダイニングテーブルに押し伏せられ、背後から激しく突かれている西森千夏は、尾崎時生の青筋を浮かべた手首を爪立てて掴み、彼を遠ざけようとした。
女の強固な拒絶に、時生の瞳に苛立ちがよぎった。衝撃はさらに荒々しさを増し、その眼差しの怒りは彼女を八つ裂きにせんばかりだ。
「千夏、これがお前の望みだったんじゃないのか? あの時は手段を選ばず俺に嫁ごうとしたくせに。今さら貞淑ぶって、誰に見せつけるつもりだ」
その一言が、千夏のプライドを粉々に打ち砕いた。彼女は目元を赤く染め、必死に否定した。「違うわ。あの時の出来事は、私が仕組んだことじゃない」
時生の端正な顔に、鋭い嘲りが浮かび、振る舞いはさらに荒々しくなった。
「千夏、企んだのはお前だろうが?今さら無垢で可哀そうな被害者のふりができるなんてな? お前は思い通りになっただろうが、俺は?」
彼は尾崎グループにおける若きトップとして、ビジネスの世界では一切の妥協を許さず、絶対的な権力を振るう男だ。そんな自分が、まさかこんな女の掌の上で転がされるとは。
千夏は真っ白な歯で赤い唇をきつく噛み締めた。逃げ出したいのに、男の腕の中に強引に閉じ込められ、蹂躙され続けた。
床には、無残にも散らかったままの料理が広がっている。それは、千夏が丸一日かけて、心を込めて用意したキャンドルライトディナーだった。
今日は二人の結婚三周年の記念日であり、同時に、尾崎時生が彼女を誤解し続けてから1095日目の日でもあった。
男はわざと彼女を痛めつけている。千夏は何か反論したかったが、足元はおぼつかず、思考さえもかき乱されていた。彼女は震える声で訴え、本能的に彼を押し退けようと腕を伸ばした。「もう嫌、時生。今日はいつもと違うの!」
時生は骨ばった指で、彼女の潤んだ唇を乱暴に塞いだ。「何が違うって言うんだ? 夫婦の義務だ。耐えられなくても受け入れろ」
その言葉が、千夏の敏感な神経を逆撫でした。彼女は自嘲するように唇の端を歪めた。「夫だという自覚、まだあるのね。てっきり、浅野麻里の夫だとばかり思っていたわ」
時生の表情が豹変し、彼女の体から離れた。「お前が彼女の名前を口にする資格はない!」
千夏は力が抜け、ソファに崩れ落ちた。結婚記念日に、彼女だってあの女の話など持ち出したくはなかったのだ。ほんの数時間前、麻里からわざわざ一本の動画が送られてこなければ。
動画の中の麻里は、時生の肩に寄り添い、親しげに夜空を彩る花火を眺めていた。 そして花火が終わった後、二人は肩を並べて五つ星ホテルへ歩み入っていった。
いい大人だ。夜更けに男女が二人きりでホテルへ向かう意味など、語るまでもない。
「結婚記念日にあんたがあの女に付き合わなければ、私だって黙ってたのに」
時生は彼女の手首を掴み、乱暴に自分の方へ引き寄せた。その瞳には、凍てつくような冷たさが宿っている。「千夏、俺を尾行したのか?」
彼女はまた自嘲気味に笑った。3年前、結婚という鳥籠に入ってからというもの、彼女はキャリアを捨てるよう強いられてきた。男の周りを回るだけの家庭主婦に、夫を尾行するスキルなどあるはずがない。
「尾行なんてしてないわ、時生。でも、私たちの結婚記念日に、あなたは忘れられない女に会いに行った。私のことを、一体なんだと思っているの?」
時生の怒りはついに沸点に達した。骨ばった指が彼女の細い首を掴み、ぐっと引き寄せた。人を切り裂くような、陰惨で鋭い眼差しだ。
「ただの欲望の捌け口だ。他に何だと思ってた?」
千夏の体がビクッと震え、心の中が冷たい氷で満たされていった。この人は、彼女が何年も何年も愛し続けてきた男なのだ。
幼い頃、道端の不良たちから彼女を庇い、容赦なく叩きのめしてくれたあの日から、彼女は彼に救いようのない恋心を抱いた。
しかし、その想いを伝える前に、何者かに薬を盛られた時生に無理やり部屋に引きずり込まれ、一線を越えてしまった。最初は抵抗したものの、相手が彼だと気づいた瞬間、彼女は従順に身を委ねたのだ。
だがその後、時生は彼女を悪女だと罵倒し、自分にすがりつくために手段を選ばなかったのだと決めつけた。
千夏には、弁解の余地すら与えられなかった。
あの時、時生はろくに調べもせず、一方的に彼女へ有罪判決を下したのだ。
過去の耐え難い屈辱と、目の前に広がる悲惨な現実。彼女は突然、もう何もかも諦めたくなった。
再び目を開いた千夏は、胸をえぐるような悲痛な声で叫んだ。「尾崎時生、そこまで私を踏みにじるなら――この結婚、終わりにしよう!」
話 2
そもそも彼らが結婚したこと自体が間違いだったのだ。ならば、一刻も早くこの過ちを正さなければならない。
密やかに思いを寄せ続けた二年、結婚してからの三年。丸五年という歳月をかけても、彼女は彼の心を温めることはできなかった。 それならば、これ以上泥沼に沈んでいくわけにはいかない。
(私、西森千夏は、こんなふうに生きるべき人間ではない!)
尾崎時生の瞳に驚愕の色が走った。まるでとんでもない冗談でも聞いたかのように、その口角が皮肉げに釣り上がった。
「千夏!喚くのもいい加減にしろ。俺から離れて、ハイブランドの新作が手に入るとでも思っているのか? 何億もするような代々伝わるジュエリーを、お前が身につけられるとでも?」
千夏は強張った顔を上げ、背筋をピンと伸ばして、一言一言はっきりと告げた。「時生、私はあなたの妻よ。あなたが鳥籠で飼っているカナリアじゃない!」
妻だと?
時生の漆黒の瞳に冷酷な光がよぎり、その言葉にはっきりと脅しが込められていた。「西森千夏、自分の立場をわきまえろ。お前のヒステリーに付き合っている暇はない!」
そう吐き捨て、彼はドアを激しく閉めて部屋を出て行った。
千夏は遠ざかっていく彼の背中をじっと見つめ、きっぱりと言い放った。「ヒステリーなんかじゃないわ。離婚協議書は私が作成して、サインしてからあなたの会社に送るから」
ゴロゴロ――!
千夏が家を出た時、どんよりと曇った空に突然雷が鳴り響き、すぐに大粒の雨が激しく打ち付け始めた。 彼女は傘を差し、毅然とした態度でスーツケースを引いて歩き出した。
大学時代からの親友である原田美帆は、彼女が離婚すると知るやいなや、時生への罵詈雑言を延々と浴びせ、それから聞いた。「でも、なんで離婚するのよ? 結婚した時は、死別しかあり得ないって言ってたじゃない」
他人は千夏がどれほど深く時生を愛しているか知らないかもしれないが、美帆だけは痛いほど分かっている。
千夏は深い憂いを帯びた表情で、ため息をついて言った。「昔とは違うのよ」
美帆はそんな単純な話ではないと直感し、急かして問い詰めた。「千夏、正直に話して。一体どういうことなの?」
千夏の胸の奥から、チクチクとした酸っぱい痛みが込み上げてきた。「私たちの結婚三周年の記念日に、彼、浮気したの。しかも、あの忘れられない女とね」
時生が麻里と一緒にいるところを撮られたのは、一度や二度ではない。だが、それは食事だったり、撮影現場の訪問だったりと、まだ言い訳のつくものばかりだった。 今回のように、直接ホテルへ向かったのとは訳が違う。
千夏はスマホを取り出し、あの動画を再生した。スピーカーから漏れる音声が、愛する人の裏切りを容赦なく彼女に突きつけていく。
動画を見終えた美帆は完全に頭に血が上り、憤然と捲し立てた。「あのクソ男、見た目はいいくせに趣味が悪すぎるわ!浅野麻里みたいな性悪女、あんたより綺麗でもないし思いやりもないのに。飢えすぎて何でも食いつくようになったわけ? ……そういえば、あいつの不倫で、慰謝料はいくらもらうつもり?」
千夏のピンと張っていた背筋が、少しだけ丸くなった。「何も要求してないわ。身一つで出てきたの」
美帆は信じられないというように目を丸くし、千夏の肩を揺さぶった。「あんた、バカじゃないの?浮気男の金なんて、もらわなきゃ損でしょ!それに、悪いのは彼の方なんだから」
千夏はため息をついた。「財産分与なんて持ち出したら、離婚の話し合いが長引くだけよ。それに、私だって損はしてない。この何年かで、彼が西森家に回してくれた契約は十分すぎるほどだわ」
尾崎グループがこぼれ落ちてくるようなプロジェクトでも、少なく見積もって数千万単位の純利益が出るのだ。
美帆もその理屈には納得したようで、千夏の手を握って聞いた。「じゃあ、離婚した後はどうするつもり?」
タクシーでここへ向かった時、千夏はすでにビジネスの第一線へ復帰することを決意した。「恋愛でつまずいた分、仕事で成功してやるわ。3年前に業界を引退した時、叶えられなかった夢を実現させるつもりよ」
結婚する前、千夏は芸能プロダクションのマネージャーとして活躍し、数人のタレントを抱えていた。彼女の育成とプロデュースのもと、彼らは一人残らず大ブレイクを果たしたのだ。
当時、彼女は最も将来性のある男女二人のタレントを、それぞれ最優秀主演男優賞と女優賞の座に導くことを目標にしていた。 しかし、運命のいたずらで時生と関係を持ってしまった。
一夜の過ちの後、目を覚ますと、彼女と時生に向けられた無数のフラッシュが閃き、二人の関係を問いただす記者たちに囲まれていた。
当時、時生は尾崎グループの経営を引き継いだばかりで、まだ完全に足場を固めていなかったため、このスキャンダルに泣き寝入りするほかなかった。
その日のうちに、二人は婚姻届を提出した。結婚式も、花束も、そして指輪さえもない結婚だった。
美帆は彼女が仕事に復帰する決意を固めているのを見て、慌ててSNSのタイムラインを開いて見せた。
「星光メディアの社長の高野俊臣が、ちょうどマネージャーを募集してるわ。あなたの古巣だし、以前は実績もあったじゃない。私が彼に電話して、面会の約束を取ろうか?」
千夏は拒絶するように首を振った。「やめて。元の会社に戻るつもりはないわ」
あの時、彼女は一方的に退職したため、関係が少しこじれてしまったのだ。それに……。
話 3
原田美帆は彼女の密かな思いを見抜き、その手をぽんぽんと叩いて、思わせぶりに口元を緩めた。「じゃあ、まずは私のところでゆっくり休んで。後で、いい所に連れて行ってあげるから」
西森千夏が再び目を覚ました時には、すでに午後になっていた。 彼女は手際よく弁護士に連絡して離婚協議書を作成させ、署名をしてから、バイク便で尾崎グループの社長室に送りつけた。
尾崎時生はアシスタントからそれを受け取り、署名済みの離婚協議書を目にして、怒りのあまり冷笑を漏らした。
女のサインは乱暴に書き殴られており、まるで挑発しているかのようだ。
彼は骨ばった指で書類の角をつまみ、執務机の上に荒々しく叩きつけた。
紙の束がデスクにぶつかり、鈍い音を立てた。
「千夏、いい度胸だ!」
彼は、千夏が大人しく離婚するとは到底信じていなかった。離婚を切り出したのは、引いてみせる芝居で何か別の目的を達成しようとする、ただの駆け引きに過ぎないのだ。
再び千夏と顔を合わせたのは、業界のサミットでのことだった。彼女は元々長かった艶やかな黒髪を少し短く切り、ゆるいパーマをかけて、無造作に肩へかけている。
女は銀色のフリンジロングドレスを身にまとい、胸元の深いVネックがくっきりとした鎖骨のラインを際立たせている。その顔立ちは気品に満ち、フリンジは照明を浴びてきらきらと輝き、見る者の目を奪うほどに眩しかった。
その一挙手一投足が人の心を惹きつけ、まるで彼女こそがこのサミットの主役であるかのようだ。
時生は元々、この女が美しいことは知っている。だが、装いを一新した彼女がここまで人をうっとりさせるほどに美しいとは想像もしていなかった。
あまりにも強く感じる視線に、千夏は本能的に振り返った。そして視線を上げた瞬間、時生の深淵のような瞳と視線が絡み合う。黒いスーツに身を包んだ彼は、全身から容易には近づきがたい高貴なオーラを放っている。
その男の隣には、親しげに彼の腕にしがみつく浅野麻里が立っている。女の顔には、必ず手に入れてみせるという野望がのぞいていた。
千夏は麻里の得意げな態度を見て、呆れたように小さく笑い、視線を逸らした。 そのまま業界の先輩との歓談を続けようとした時、一人の若い女性が彼女にぶつかり、手にしていた果汁をこぼしてしまった。
千夏は避けきれず、フリンジのドレスを汚してしまった。歓談していた先輩に一言挨拶してから、拭き取るために化粧室へ向かった。
「西森千夏、どうしてあなたがここにいるの? こんなレベルの高い業界サミットに、ただの主婦が来る資格なんてあるの! 」
家庭主婦という言葉が、千夏の胸をチクりと刺した。かつては彼女もビジネスの第一線を駆け抜けるキャリアウーマンだったのだ。しかし愛のために、誇り高きキャリアを捨てることを選んだ。
だが幸いなことに、まだ遅くはない。彼女には、もう一度ゼロからやり直すだけの実力と覚悟がある。
千夏は嘲りの色を込めた瞳で彼女を見つめた。
麻里は千夏が黙っているのを見て、さらに図に乗って言い募る。「あなたみたいに厚かましい人、見たことないわ。動画、送ってあげたでしょう? 何、もっと生々しいところを見ないと、尾崎夫人の座を譲る気にならないの? 人のものを横取りして、しかもあんなに居座るその厚かましい有様、本当に吐き気がするわ!」
千夏の眼差しが氷のように冷ややかなものに変わった。彼女は容赦なく言い返した。「浅野さんの気持ち悪さには到底及ばないわ。自分が愛人だと分かっていながら妻帯者を誘惑した挙句、本妻の前にわざわざ出向いて挑発するなんて。厚かましさでは、あなたの右に出る者はいないでしょうね?」
麻里は数秒間呆然とし、千夏が真正面から反撃してきたことが信じられなかった。彼女が挑発するのはこれが初めてではなかったが、千夏はこれまで一度もまともに取り合わなかったのだ。
彼女は怒りのあまり顔を真っ赤にして腕を振り上げ、千夏の顔に平手打ちを見舞おうとした。「私たちの間に割り込んだのはあなたの方でしょ! あなたが卑劣な手を使って時生に薬を盛ったりしなければ、私がとっくに尾崎夫人になってたわ。彼だって、あなたのことを心底嫌っているんだから!」
だがその前に、千夏の重い平手打ちが麻里の頬をまともに打った。「浅野さん、私を不快にさせる暇があるなら、少しは本でも読んだら? 口を開けば脳味噌が腐ってるくさいわ。彼がどれほど私を嫌おうと、今のところ私は尾崎の妻なのよ」
麻里は信じられないというように目を丸くし、千夏を懲らしめようと飛びかかった。「このくそ女、よくも私をぶったわね!ぶっ殺してやる、時生だってあなたを許さないんだから!」
千夏はタイミングを見計らい、足を引っ掛けて彼女を転ばせた。「彼が私を許さないって? さあ、どっちが先か賭けてみようか。あんたらが私を葬るか、それとも私があんたらみたいな不倫カップルを社会的に抹殺するか。 尾崎グループがどれほど大企業だろうと、世論の前では無力なものよ。 これ以上私を不快にさせないで。さもないと、私はすべての時間を注ぎ込んで離婚訴訟を起こし、尾崎時生の財産を根こそぎ分けてもらうわよ」
「なるほど、そういう企みがあったというわけか」 近づいてきた時生の声は、まるで極寒の氷をまとったかのように、底冷えするほど冷え切っている。