2

菊池星奈のその言葉に、男の目がすっと細められた。 射抜くような、それでいて値踏みするような光が宿る。 「お嬢さん、本気かね。 俺は見ての通りの身体だ。 俺に嫁げば、いずれ必ず、後悔する日が来ますよ」

星奈はまっすぐに男を見据え、問いを問いで返した。 「どなたか他の女性のために、ご自分の妻を蔑ろになさいますか?」

「無論、ありえん」男は即答した。 その声に一片の迷いもない、静かな確信に満ちていた。

その声を受け、星奈は微笑みさえ浮かべて言い放った。 「でしたら、私も後悔などいたしません。 あなたが娶ってくださるのなら、私は喜んで嫁ぎます!」その曇りなき瞳に見つめられ、男はふっと息を漏らした。

これ以上、この女の覚悟を試すのは野暮だろう。 断る理由は、どこにもなかった。 「……いいでしょう。 では、結婚しましょう」

こうして、花婿不在で中止になるはずだった星奈の結婚式は、車椅子の見知らぬ男を新たな伴侶として、滞りなく執り行われた。

牧師の立ち会いのもと、二人の名が記された結婚証明書を、彼女は震える指で受け取った。

教会の重い扉を押し開き、星奈はまだ夢の中にいるような心地だった。 まさか、ほんの数時間のうちに、見ず知らずの男と夫婦になるなど、誰が想像できただろう。

今日から、私の新しい人生が始まるのだ。

彼女は静かに車椅子のグリップを握り、ゆっくりと石畳の上を押し始めた。 その時、ふと、あまりにも初歩的なことに気づいた。 「あの……わたくし、まだあなた様のお名前を伺っておりませんでした」

「藤井勇真だ」 男は短く答えた。

その名を聞いた瞬間、星奈は思わず息を呑んだ。 「あなたが、あの藤井グループの……藤井勇真様、でいらっしゃいますか?」

藤井勇真は、星奈の動揺を面白がるでもなく、ただ当然のこととして受け止めた。 その唇の端に浮かんだのは、すべてを諦めたような、冷たい自嘲の笑みだった。

「どうした。 この街で知らぬ者のない『出来損ない』に嫁いだと知って、早くも後悔が始まったか?」

藤井グループの御曹司、藤井勇真。 その名を知らぬ者は、この街にはほとんどいない。

彼が生まれた時、母は難産で亡くなり、父は継母を迎えた。

その後、交通事故に遭い、この若様は両足が不自由になり、完全に役立たずの人間になってしまった。

ちょうどその頃、継母が待望の男児を産んだことで、勇真は藤井家で完全な「お荷物」となったのだ。

もし彼の祖母、藤井家の大奥様の庇護がなければ、とうの昔に家を追い出され、路頭に迷っていたに違いない。 だから、わかるのだ。

まともな女が、自分のような男に嫁ぐはずがない。 あるとすれば金目当て。

だが、今の自分に何がある? この女の目論見は、早々に打ち砕かれるだろう。

勇真は待っていた。 目の前の女の顔が、絶望と後悔に歪む、その瞬間を。 だが、勇真の予想は裏切られた。 星奈の心に浮かんだのは、後悔ではなかった。

むしろ、目の前の男と自分を重ね合わせるような、不思議な共感だった。 家族に愛されなかった者同士――その痛みを、彼女は知っていた。

星奈はそっと手を伸ばし、彼の冷えた手を両手で包み込んだ。 「申し上げたはずです。 あなたに嫁ぐと決めたこと、後悔はいたしません、と。 夫婦になったのですから……これからは、あなたと共に、温かい家庭を築いていきたい。 ただ、そう思っただけなのです」

「……そうか。 だと、いいがな」

その言葉は、勇真の心の壁を通り抜けることなく、虚しく響いただけだった。

何の得にもならないと知った時、この女の優しい芝居はいつまで続くだろうか。 見ものだな、と勇真は冷ややかに思った。

やがて、一台の黒塗りのセダンが音もなく二人の前に滑り込んできた。

「行くぞ」彼が短く告げた。

星奈は思わず尋ねた。 「どこへ……?」

「決まっているだろう。 俺たちの『家』に帰るんだ。 夫婦になったのだから、共に暮らすのは当然だ」

私たちの、家……?

その言葉が、細い針のように星奈の胸をちくりと刺した。

脳裏をよぎったのは、伊藤直哉と共に夢見た「家」の光景だった。 二人の未来を思い描き、一つひとつ心を込めて整えた、あの部屋。

だが、あの夢はもう終わったのだ。 過去の残骸は、この手で葬り去らなければならない。

そう決意し、彼女は口を開いた。 「あの、私、片付けなければならない私的な用事がございまして……差し支えなければ、ご連絡先とご住所を教えていただけますでしょうか。 それが済み次第、すぐに伺いますので」

「送ろうか?」勇真がかすかに眉を上げて尋ねる。

「いえ、お気遣いなく。 これは、私一人の問題ですから」 星奈がきっぱりとそう言うと、 勇真はそれ以上何も言わなかった。

ただ黙って連絡先を交換すると、 車に乗り込み、 去っていった。

三十分後。 星奈は、かつて「新居」と呼ぶはずだったマンションのドアの前に立っていた。

二人で選んだテーブルクロス。 壁に飾った思い出の絵。 窓辺に並べたお揃いの観葉植物。 部屋の隅々にまで、ささやかな幸せへの願いが満ちていた。この家を、世界で一番温かい場所にするために……。

星奈は、その一つひとつに歩み寄ると、一瞬の躊躇いも見せず、壁から絵を引き剥がし、テーブルクロスを乱暴に引きずり下ろし、すべてを大きなゴミ袋へと叩き込んだ。

新しい人生を始めると決めたのだ。 過去への未練など、一片たりとも残してはならない!

思い出の残骸をすべて捨て去り、自分の荷物をスーツケースに詰め込んでいた星奈は、開け放たれたドアの外に立つ人影に、まったく気づいていなかった。

部屋の惨状と、無心に作業を続ける星奈の姿を、伊藤直哉は愕然と見つめていた。 やがて、絞り出すような、怒りに震える声が響いた。 「菊池星奈ッ……! お前、ここで一体、何をしているんだ!?」

3

二人で夢見たはずの温かな新居は、無惨に荒れ果て、元の面影はどこにもなかった。

その惨状を作り出した張本人――菊池星奈は、まだ無事なものを淡々とスーツケースに詰め込んでいる。 この部屋から全てを消し去るかのように。

伊藤直哉は、信じがたい光景に目を見張り、ずかずかと星奈に歩み寄った。

「菊池星奈、 正気か? 俺が少し目を離した隙に、こんな子供じみた真似を?」

こめかみを引きつらせ、怒りを無理やり喉の奥に押し込むように、直哉は吐き捨てた。 「一時間やる。 さっさと元通りに片付けろ!」

星奈は詰める手を止めもせず、ゆっくりと振り返ると、氷のような視線で直哉を射抜いた。

そして、ふっ、と鼻で笑う。「知らないの、直哉? 一度壊れてしまったものは、もう二度と元には戻らないのよ。 私たちの関係みたいにね」

直哉は苛立たしげに眉根を寄せた。 「一体、何が言いたいんだ?」

星奈には、目の前の男がどこからそんな自信を持って自分を詰問できるのか、まるで理解できなかった。 おそらく、この種の人間は、自分が悪いなどと微塵も思わないのだろう。

いや、違う。 彼の優しさは、ただ一人――愛する女、遠藤理紗にだけ注がれるのだから。

星奈は無表情のまま直哉をまっすぐに見据え、一言一言、唇から絞り出すように言葉を紡いだ。

「結婚式当日、あなたは私のプライドも、懇願も、すべて踏みにじって、私を一人、あの場所に置き去りにした。 あの時の私が、どんな気持ちだったか想像したことある? ねえ、直哉。あなたは一度でも、 私の身になって考えてくれたことがあるの? こんな仕打ちを受けてもなお、私がただ癇癪を起こしているだけに見えるの?」

言葉と共に、心の奥底から堰を切ったように悲しみが溢れ出しそうになるのを、必死でこらえる。 瞳に涙の膜が張り、星奈は目の前の男をただじっと見つめた。

その潤んだ瞳に、直哉の胸に一瞬、罪悪感がよぎった。 だが、すぐにその感情を打ち消す。

長年付き合ってきて、彼女を怒らせたことなど一度や二度ではない。 いつだって大したことにはならなかったし、星奈は決まって自分を許してきた。 今回も同じだ。

いつものように、少し機嫌を取ってやれば、彼女の気も晴れるだろう。

そう結論づけるや、直哉はすっと表情から怒りの色を消し、冷静な笑みさえ浮かべてみせた。

「わかった、わかったから。 お前が不愉快なのは理解してる。 だけど、こんな風に当たり散らすのはよせ。 見ろよ、俺たちの新居が台無しじゃないか」

直哉は笑みを浮かべたまま、なだめるように星奈の華奢な肩に手を置いた。

「ほら、もう気は済んだだろう? また日を改めて、もっといい日を選べばいい。 埋め合わせに、もっと盛大で豪華な結婚式を約束する。 な、それでいいだろう?」

星奈は、直哉の顔に浮かぶ笑みを静かに見つめた。 口先では優しい言葉を並べているが、その目に浮かぶのは、自分を意のままにできるという傲慢な自信と、勝利を確信したような色だった。 まるで、自分が頷くと決めてかかっているかのように。

そうだ、いつだってこの人はこうだった。

星奈は心の中で自嘲する。 私が、甘やかしすぎたのだ。 だからこの人は、私をぞんざいに扱っても許されると、高を括るようになったのだ。

次の瞬間、星奈は氷のような声で、肩に置かれた直哉の手を振り払った。

「触らないで。 汚らわしい!」

かつての彼女からは想像もつかない拒絶に、直哉は絶句した。

続いて、星奈は冷ややかに言い放つ。 「伊藤直哉、あの結婚式はもう終わったの。 やり直すつもりなんてない。 今日ここに来たのは、荷物をまとめるためよ」

その言葉に、直哉は不快げに眉をひそめた。 「荷物をまとめる、だと?」

星奈は頷いた。 「ええ、今すぐここを出ていくわ」

伊藤直哉はまるで冗談を聞いたかのように、面白がるように問い返す。 「お前に一体、行く当てでもあるっていうのか?」

星奈が天涯孤独の身で、この家以外に身を寄せる場所などないことを、直哉は誰よりも知っていた。

この五年間、星奈の世界は自分を中心に回ってきたのだ。 彼女が自分から離れられるはずがない。

引っ越すなどというのも、自分に頭を下げさせるための、ただの脅し文句に過ぎない。

直哉はやれやれと首を振り、なおも何かを言い募ろうとした。

その時、背後から甘ったるい声がした。

「直哉、荷造りが終わったら降りてくるって言ったのに。 どうしてこんなに時間がかかってるの?」

言いながら部屋に入ってきた理紗は、直哉の向かいに立つ星奈の姿を認めると、大げさに目を見開いてみせた。 「星奈さん、どうしてここに?」

星奈は理紗を淡々と一瞥する。 「ここは私たちの新居のはずだけど。 あなたに説明する義務、 あるかしら? それよりあなたこそ、ここで何をしているの?」

理紗はわざとらしく傷ついたように瞳を伏せ、か弱い声で言った。 「果物ナイフで、うっかり手を切っちゃって。 直哉が心配して、私のところに数日泊まり込みで看病してくれることになったの」

一呼吸置いて、まるで今気づいたかのように星奈の荷物に目をやり、信じられないとでもいうように、そっと口に手を当てた。

「まあ、 星奈さん、 あなたこれは何をしてるの? もしかして怒ってるの? だからって、 こんな乱暴なことしちゃだめよ。 もし私のことで気に障ったなら、そう言ってくれればよかったのに。 私が謝るから、こんなことしなくても……」

星奈は冷ややかに唇の端を吊り上げ、ゆっくりと理紗に歩み寄りながら尋ねた。 「本当に私に謝るつもり? 本気で言ってるの?」

直哉がいる手前、理紗はもちろん芝居を続けるつもりだった。

彼女は可哀想なヒロインを演じながら頷く。 「もちろんよ。 それであなたの気が済むなら」

「いいわ、問題ないわね」 星奈は明るい笑みを浮かべたが、その瞳には何の光も宿っていなかった。 「あなたが心から謝ってくれるって言うなら、遠慮なくさせてもらうわ」

言葉が終わるか終わらないかのうちに、星奈は力いっぱい腕を振り上げ、理紗の頬に平手打ちを食わせた。

パァン!

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クズと結婚したら、世界一の億万長者の妻に!?

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