話 2
体に食い込む縄を固く握りしめ、落下への恐怖に耐えていた。
「お願い、殺さないで」
『私を殺したところで、ロックは気にもしない』――先ほど投げかけられた男の言葉の意味を、私はすでに理解していた。
返ってきたのは、彼の沈黙だけだった。
突如、スマートフォンが狂ったように振動し始めた。すべてデビーからのメッセージである。
画面には、ロックの体に乱れた姿で横たわる彼女の姿が映し出されていた。
ロックは優しく彼女の手を取り、その腹部へと導いている。
慈しむような、その手つき。
デビー:【彼が言ってたわ。私が子を産めば、月の女神様も私を認めてくださるって。そうなれば私は最も尊い首領の伴侶。あなたは、何者でもなくなるのよ!】
返信する余裕などなかったが、彼女はそれを意図的な無視と受け取ったらしい。
あろうことか、ロックとの情事の写真が次々と送りつけられてくる。
家で、ホテルで、議事堂で……
森の中ですら。
彼らは人目につかないあらゆる場所で、体を重ねていた。
こみ上げてくる吐き気に、私は思わず縄から手を離して口元を押さえた。
その動きで、背後の木が微かに揺れる。
それまで凪いでいたロンの瞳が、刹那、鋭く引き締まった。彼は即座に駆け寄ると私の縄を掴み、力強く引き戻す。
「この状況で動くとは、命が惜しくないのか」彼は私を睨めつけ、吐き捨てるように言った。
しかし、自身の語気の強さに気づいたのか、すぐに表情を和らげた。
「お前を捕らえればロックを脅せると踏んだが、どうやら考え違いだったらしい」
「お前は彼にとって、何の価値もないようだ」
息が詰まり、私は唇を強く噛みしめた。
ロックの言葉が頭から離れず、唇が切れて血が滲んでいることにも気づかなかった。
不意にロンが歩み寄り、私の口角をそっと指で拭った。
彼の白い指先に付着した赤い血が、やけに目に焼き付く。
次の瞬間、彼はその指を自身の唇へと運び、血を舐め取った。「一つ頼みを聞いてくれれば、解放してやろう」
私は緊張のあまり半歩後ずさり、彼との距離を取る。
ロンは喜怒哀楽を表に出さず、残虐で気まぐれだという噂だった。些細なことで人を殺す、と。
そして先ほどの彼の行為は、言いようのない不快感を私に与えた。
まるで自分の領域に土足で踏み込まれたような。
私の様子を見て、彼はかすかに笑みを浮かべた。「安心しろ。お前を殺す気はない」
「ロックの元へ戻り、以前お前が彼に贈った指輪を取り返してこい」
私は呆然とした。「なぜ、指輪のことを……?」
彼は問いには答えず、部下に私を送るよう命じた。
ロンが口にした指輪は、私の両親が結婚の際に手作りした形見の品だった。
かつてロックの部族は私の両親に救われた恩があり、部族の誰もが両親に感謝していた。
だからこそ、あの指輪は部族の中で絶大な影響力を持っていたのだ。
ロックと付き合い始めた頃、私は愛の証として、その指輪を彼に贈った。
まさか、ロンはこの指輪を利用してロックの部族を乗っ取ろうと企んでいるのか?
重い足取りで、私は部族へと戻った。
私に向けられる人々の視線から、かつての尊敬の念は消え失せ、
今はただ軽蔑の色が浮かんでいるだけだった。
「どの面下げて戻ってきた! 未来の首領様を危険に晒したくせに!」
「追い出せ!」
「出ていけ!」
口では激しく罵るものの、実際に手を出してくる者はいなかった。
私はまっすぐ、かつて我が家だった場所へと向かう。
ロックは指輪を寝室のベッドサイドテーブルに保管していたはずだ。
だが、扉を開けた先に待っていた光景は、私の予想を遥かに超えていた。リビングで抱き合う二人の姿が、目に飛び込んできたのだ。
私の存在に気づいたロックの表情は、陶酔から一転、冷たい嘲笑へと変わった。
「誘拐されたのではなかったのか? ずいぶんと早いお帰りだな」
デビーは私の衣服を上から下まで品定めするように眺めると、わざとらしく口元を覆って悲鳴を上げる。
「誘拐犯の中には“条件”次第で取引してくれる人もいるって聞いたわ。ジュリー、あなたの服、そんなにボロボロで……まさか……」
彼女は故意に言葉を濁し、悪意に満ちた想像の余地を残した。
ロックは立ち上がると、私の目の前で空気を吸い込むように、匂いを嗅いだ。
案の定、私の体にまとわりつく、他のアルファの匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
彼の表情がみるみる険しくなる。「誰に抱かれた」
「あなたには関係ない。今日は自分の物を取り返しに来ただけ」私は彼を無視して寝室へ向かおうとした。
「あなたの荷物なら、全部玄関にまとめてあるわよ。見なかったの?」デビーがゆったりとした口調で口を挟んだ。
「これからは私がここに住むから、ロックが私の好みに合わせて模様替えしてくれたの」
その言葉で、私はようやく気づいた。この部屋から、かつての面影はひとかけらも消え去っていたことを。
心が、音を立てて沈んでいくようだった。
話 3
私は一切の躊躇なく、玄関へ駆け寄ると自分の荷物をかき集め始めた。
かつてロックが贈ってくれた品々、私の服やアクセサリーが、すべて無造作に玄関に山積みされていた。
一つひとつ手にとって整理していると、涙が不意に頬を伝った。
ロックはしばらく後ろで黙って見ていたが、やがてためらいがちに近づき、私の腕を掴んで引き起こした。
「片付けるな。新しいものは、いくらでも買ってやる」
「デビーが子を産めば、彼女は俺の伴侶となる。だが、君との関係が変わるわけじゃない」
私は愕然とした。 「私に、あなたの日陰の恋人になれとでも言うの!?」
彼は屁理屈をこねる。「俺たちは愛し合っている。一緒になるのは当然のことだろう。そんな言い方はないんじゃないか」
私は彼を突き放し、黙々と荷物の整理を続けた。
もしロンとの約束がなければ、このタイミングで戻ってくることなど決してなかっただろう。
彼と言葉を交わすたび、胃の腑が煮えくり返るような思いがするからだ。
彼の言葉のすべてが、私の自尊心を容赦なく踏みにじっていく。
だが、荷物をすべて改めたというのに、あの指輪だけが見つからなかった。
「ロック、私が昔あなたにあげた指輪はどこ?」
ドアに寄りかかっていたデビーが、すっと自分の手を持ち上げた。「これのこと?」
エメラルドが陽光を浴び、きらりと妖しい光を放った。
私は矢のように駆け寄り、指輪を奪い返そうとした。
しかし、デビーの指に触れるよりも早く、彼女はわざとらしく後ろへ倒れ込んだ。
「きゃっ! ジュリー、どうして私を押すの!」
「押してない――」
言葉を言い終える前に、私はロックに荒々しく突き飛ばされた。
昨日殴られた背中の傷が開き、床に長い血の痕を引いた。
昔は、私の指が少し切れただけで狼狽したロックが、今はこの惨状を一瞥だにしない。
彼は壊れ物を扱うかのように優しくデビーを支え起こした。「大丈夫か?」
その声音は水のように優しく、先ほどまでの私に対する凶暴な形相とはまるで別人だった。
「わざとはめたわけじゃないの。ただ、綺麗だと思って……」
彼女は指輪を外そうとするふりをしながら、涙声で言った。「ごめんなさい。今すぐ返すから、叩かないで」
彼女が哀れに見えれば見えるほど、ロックの私に対する怒りは増していく。
彼はデビーの手を固く握った。「これは彼女が俺に贈ったものだ。どうしようと俺の勝手だろう」
「君にやると言ったんだ。なら、これは君のものだ!」
「ロック――」私の弱々しい声が、彼の注意を引き戻した。
地面に蹲って起き上がれない私と、床に広がる血痕が、彼の目に焼き付いた。
「なぜ、こんなに血が……?」
見間違いだっただろうか。彼の瞳の奥に、一瞬だけ痛みの色がよぎった気がした。
デビーが彼の腕にしがみつく。「ロック、全部私が悪いの。やっぱり一度、自分の家に戻るわ」
ロックは我に返ると、彼女を安心させるように強く抱きしめた。「去るべきは、君じゃない」
私はようやく床から体を起こし、ふらつく足で二人の前に立った。
「ロック、私は出て行くわ。だから、お願い。指輪を返してくれない?」
「あれは……両親が遺してくれた、たった一つの形見なの。お願い」
これほどまでに、自分が卑屈になったことはなかった。
「指輪を返してくれるなら、部族での特権はすべて放棄する」
私は歯を食いしばった。「私は……ローグにだってなるわ」
「正気か!」
ロックは信じられないというように吼えた。「そんな言葉、軽々しく口にしていいと思っているのか!」
だが、彼の言葉はもう私の耳には届かなかった。私はただ、指輪を返してほしいと懇願し続けた。
ついには、地面に膝をついて。
ロックは、私の額から流れる真っ赤な血の筋に視線を落とすと、舌打ちし、指輪を私の目の前に叩きつけた。
「消えろ!二度と俺の前に顔を見せるな」
失われたはずの指輪を握りしめると、荒れ狂っていた心が不思議と静まった。
立ち上がったとき、先ほどまでの脆さや懇願は跡形もなく消え失せていた。
「ロック。これで、私たちにはもう何の関係もない」
「後悔しないでね」