話 1
瀧ノ上清穂は、今日、北条渉と結婚する。
荘厳な結婚行進曲が響き渡る中、純白のウェディングドレスに身を包んだ清穂は、祭壇へと続くバージンロードを、優雅な足取りで進んでいく。
その先には、彼女の愛する渉が立っていた。 渉は白いタキシードに身を包んでいる。 温かい照明が彼を照らし、その優しく上品な雰囲気を際立たせていた。 まるで、何年も前に出会ったあの少年が、そのまま大人になったかのようだ。
出会って三年。様々な困難を乗り越え、今日という日を迎えた。すべてが報われる、そう信じていた。
ただ一つ心残りなのは、彼女の家族がこの結婚を認めず、祝福してくれなかったことだ。
渉が前に進み出て、ブーケを差し出した瞬間、清穂は感動のあまり、瞳に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「新郎、 あなたは目の前にいるこの女性を妻として受け入れ、 結婚の誓いを立てますか? 病める時も健やかなる時も、 あるいは他のいかなる理由があろうとも、 彼女を愛し、 慈しみ、敬い、 受け入れ、 命ある限り永遠に忠実であることを誓いますか?」 神父は祭壇に立ち、慈愛に満ちた眼差しで目の前の二人を見つめていた。
清穂は胸の高鳴りを抑え、期待に満ちた眼差しで渉を見つめ、彼の肯定の返事を待った。
しかし、渉の表情は固く、喜びの色は微塵も感じられない。 彼はためらい、なかなか口を開こうとしなかった。
その時だった……。
「お兄ちゃん、大変なの!」北条理彩が突然泣きながら式場に駆け込んできて、儀式を中断させた。 彼女は理彩は子供のように泣きじゃくり、声を震わせた。「陽香お姉ちゃんが……大変なの……!」
清穂の胸に、不吉な予感がよぎった。 彼女は緊張した面持ちで渉を見つめ、自分でも気づかないうちに不安の色を顔に浮かべ、無意識のうちに渉の手を強く握りしめていた。
南雲陽香という名前が、渉の中でどれほどの重みを持つか——清穂は嫌というほど知っていた。
陽香は、渉が忘れられない初恋の相手であり、彼が一生涯愛し続けながらも、決して手に入れることのできなかった女性なのだ。
かつて北条家が没落した際、陽香は留学の機会を得るために渉を捨てた。 プライドの高い渉は、怒りのあまり陽香との連絡を一切断ち、そして、その代わりに選んだのが清穂だった。
しかし、わずか一ヶ月前、陽香が突然帰国したのだ。
渉の顔色が一変した。声が上ずり、焦りを隠せない。 「陽香に何があったんだ!」
「陽香お姉ちゃん、すごく血が出てて、全然止まらないの。 お医者さんが、命が危ないかもしれないって……!」理彩はそう答えた。
その言葉を聞いた渉は、すぐに清穂の手を振りほどき、足早に駆け出していった。
「行かないで!」清穂は縋りつき、震えが止まらない。 血走った目で彼を射抜き、絞り出すように言った。「渉、今日は私たちの結婚式よ。それでも、行くの?」
会場の賓客たちのひそひそ話や、彼女に向けられる隠微で皮肉に満ちた視線が、鋭い刃のように彼女の心を突き刺した。
真っ赤な目で彼を見上げ、清穂は震える声で懇願した。 「お願い……せめて、式だけでも終わらせて」
「陽香は俺をかばって車に轢かれて入院したんだ。 彼女を見捨てるわけにはいかない」
渉は乱暴に手を振り払うと、冷え切った目で清穂を射抜いた。「……この結婚が契約だってことは、お前が一番わかってるはずだ。大人しく北条夫人の席に座っていろ。俺の行動に、いちいち指図する権利がお前にあると思うな!」
契約……。
清穂の瞳孔が、ぐっと縮んだ。 彼女は信じられないという面持ちで渉の冷酷な顔を見つめ、その眼差しはゆっくりと自嘲の色を帯びていった。
皮肉に唇を歪めながら、清穂の声は震えていた。「……そう。あなたにとっては、ただの“契約”だったのね」
話 2
「ああ、そうだ」渉は、迷いの欠片も見せずに言い放った。
瀧ノ上清穂の心臓が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。 まるで誰かの手が、その心臓を容赦なく握りつぶそうとしているかのようだった。
渉は、ただの一言、上の空で「悪い」とだけ残すと、足早にその場を去っていった。
清穂は、渉の遠ざかる背中をただ見つめていた。 胸の奥が切り裂かれるように痛む。 息をすることさえ苦しい。
足元から冷たい何かが這い上がり、瞬く間に全身を凍てつかせた。
かつて、渉が北条グループの経営を引き継いだばかりの頃、会社は資金繰りに行き詰まり、倒産の危機に瀕していた。
その時、彼は清穂にこう約束したのだ。 会社が安定し、軌道に乗ったら、必ず正式に彼女を妻として迎える、と。
清穂はその言葉を、この数年間ずっと胸に刻み続けてきた。 一日も早く彼の妻になるために、そして自分の家族に彼を認めてもらうために、彼女は自らの人脈と能力を駆使して彼を支え、ビジネスの世界で共に戦ってきた。 無名の若者だった彼を、誰もが認める成功者へと押し上げたのは、清穂の献身に他ならない。
けれど、三年もの月日を共にした日々は、彼にとっては、ただの“取引”でしかなかった。
この恋に、最初から最後まで本気だったのは、自分一人だけだったのだ。
三年間、彼に寄り添い、尽くしてきた自分の存在は、彼が本当に愛する女性の前では、滑稽な道化に過ぎなかった。
清穂は唇をきつく噛みしめ、涙をこらえようとした。 だが、意志に反して、大粒の涙が次々と頬を伝い落ちていく。
激しい心の痛みに襲われ、彼女の体は小刻みに震え始めた。
傍らに立っていた北条理彩は、清穂のその惨めな姿を見て、あざけり笑った。 「清穂、あんたが何年も必死でしがみつくから、兄さんも仕方なく相手にしてやっただけよ。田舎臭いあんたみたいな女、学も家柄もないくせに。ねぇ、少しは恥を知ったら?さっさと北条家から出て行ってくれない?」
あまりの言い草に、清穂は心の底から冷え切った。 「忘れたとは言わせない。私がいなければ、今の北条家は存在すらしなかったのよ」
「ふざけた口を叩くな!」 理彩は激昂し、 清穂を指差して叫んだ。 「勘違いも大概にして!あんたがいなくたって、北条家はもっと上手くやっていけるのよ!」
清穂は胸が張り裂けそうだった。結局、北条家にとって彼女は、ただの使い捨ての道具だったの?
「もう、みっともない真似はやめて」 北条結衣はうんざりしたように立ち上がると、清穂の前に歩み寄った。その瞳には、まるで汚らわしいものを見るかのような嫌悪の色が浮かんでいる。 「今のあなた、本当に見苦しいわ。 あなたが恥をかくのは勝手だけど、北条家まで巻き込まないでくれる?」
そう言い放つと、結衣は再び優雅な笑みを浮かべ、賓客たちへの挨拶に戻っていった。
清穂は、その場に立ち尽くしていた。 賓客たちが三々五々、帰路につくのをただ見つめる。 待ちに待ったはずの結婚式は、なぜこんな茶番に成り下がってしまったのだろう。
私が捧げたすべての真心が、なぜこんな仕打ちに変わるの。
愛してくれない男を、愛してしまったから。 ただ、それだけの理由なのだろうか。
清穂はゆっくりと目を閉じた。 再び、涙が目尻からこぼれ落ちる。 今の自分は、あまりにも無力で、壊れやすい存在に思えた。
三十分後、清穂は一人、人気のない通りをあてもなく歩いていた。 まるで、帰る場所を失った幽霊のように。
いつの間にか、空から雨が降り始めていた。 雨粒は次第に大きくなり、やがて土砂降りへと変わる。
周囲を見渡しても、少し先のバス停以外に雨宿りできる場所は見当たらない。 彼女は裸足のまま、バス停へと駆け出した。
泣きっ面に蜂とはこのことか。鋭い小石が、裸足の裏を容赦なく切り裂いた。激痛に顔を歪めながらも、清穂は歯を食いしばり、片足を引きずりながら必死にバス停へ向かった。
ピッ——
その時、耳をつんざくクラクションが静寂を切り裂いた。
自分に向かって猛スピードで突進してくる車を見て、清穂は恐怖に見開かれた瞳で、ただその光を見つめていた。
話 3
瀧ノ上清穂の頭は真っ白になり、両足は地面に縫い付けられたように、一歩も動けなかった。
一台の車が黒い影のように猛スピードで彼女のそばをかすめていった。
清穂はなすすべなくアスファルトに倒れ込んだ。
こんな人気のない場所だ。当然、このままひき逃げされる——そう思った瞬間、車は静かにUターンし、彼女の目の前に停まった。
だが、意外にもその車はUターンして戻ってくると、清穂の目の前で停車した。
ドアが開き、まず目に入ったのはオーダーメイドの黒い革靴だった。 続いて、まっすぐで長い脚が落ち着いた足取りで彼女に向かって歩いてくる。 黒い傘が傾けられ、土砂降りの雨から彼女を庇った。
「大丈夫か?」低く、けれど不思議と耳の奥に響く声が、雨音の向こうから降ってきた。
清穂が顔を上げると、目の前の男は彫りの深い顔立ちで、顎のラインがくっきりとしていた。深い黒曜石の瞳が、雨に濡れた彼女を静かに映し、その奥にきらめく光が、ふと心を吸い寄せる。
この目……どこかで見たことがあるような気がするが?
どうしても思い出せない。
清穂は首を横に振り、かすれた声で小さく言った。 「大丈夫です、ありがとうございます… …」
彼女は地面から立ち上がろうともがいたが、脚と足の裏の傷が激しく痛み、力が抜けて後ろに倒れそうになった。
倒れかける寸前、力強い腕が彼女の腰を抱き、その胸に引き寄せた。
清穂は雅敏の硬い胸板に飛び込む形になり、一瞬で、ひんやりと落ち着く、彼特有のウッディな香りに包み込まれた。
彼女は本能的に両手を男の胸に当て、掌でその引き締まった胸筋を感じた。 布越しでも、その力強い筋肉のラインがはっきりと伝わってくる。
清穂は掌が熱くなるのを感じ、目の前の雅敏を無意識に突き放そうとした。 だが、彼を突き放すことはできず、逆に横抱きにされてしまった。
彼女は思わず眉をひそめ、その眼差しは無意識に冷たさを帯びた。 「何をするつもり?降ろして!」
三年付き合った渉とでさえ、こんなふうに抱き上げられたことなどないのに。知らない男の腕の中で、清穂はただ戸惑い、身を固くした。
雅敏は彼女を見下ろし、臆することなく言った。 「怪我をしている。 すぐに病院へ行かなければならない」
「私…… 自分で歩けます」 これほど近い距離での接触に、 清穂は非常に居心地の悪さを感じていた。 男の清涼な香りに包まれ、 全身がこわばる。
「動くな」男は有無を言わせぬ命令口調で低く囁き、清穂は瞬時に全ての抵抗をやめた。
車に乗せられると、車内の冷房に思わずくしゃみが出た。
雅敏は手を伸ばしてエアコンを切り、清穂の薄着の体を見てから、自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。 「風邪をひくなよ」
「ありがとうございます」 上着からは雅敏の香りだけでなく、彼の体温も伝わってきて、清穂の心臓はなぜか一瞬跳ねた。
雅敏は彼女の微かに赤らんだ頬に視線を送り、その目に一瞬の笑みが浮かんだ。 「礼を言うべきは俺の方だ」
「え?」清穂は雅敏を見つめた。
「お詫びを受け入れてもらえて、しかもこうして許してもらえるなら、感謝してもしきれない」と、雅敏は真っ直ぐな視線で言った。
車はすぐに近くの病院に着いた。
自分で歩くと譲らなかった清穂に、雅敏は黙って寄り添い、痛々しい足取りに歩調を合わせて、救急外来まで付き添った。
治療を終えて出てきた清穂の姿を認めると、雅敏は電話を切って近づいてきた。「これ、俺の連絡先。もしものことがあれば」
「ご厚意は結構です」 差し出された名刺を、清穂は受け取らなかった。これ以上、誰かと関わる勇気もなく、中途半端に関係を続けるのは性に合わなかった。
彼女は一瞬言葉を切り、上着を彼に返した。 「上着をお返しします。 クリーニング代は支払います」
雅敏は彼女が差し出した上着を見て、わずかに眉を上げ、その目に柔らかな笑みを浮かべた。 「今の君には、俺よりもそれが必要だ」
このシンプルな言葉が、なぜか清穂の目頭を熱くさせた。
きっと、今日の衝撃があまりにも大きかったからに違いない。 そうでなければ、見知らぬ人の何気ない気遣いに、これほど感動するはずがない。
「ありがとうございます。 もう大丈夫です。 これで失礼します」清穂は雅敏の助けを断った。 彼女は今、北条家に戻り、非常に重要なことを処理しなければならないのだ。
雅敏は、雨の中を去っていく華奢な背中を見つめながら、黒い瞳の奥に静かな炎を灯した。「……また、会うことになる」