話 1
「脱いで横になって!」
低く冷たい男の声が響いた。
中島桔依の心臓がドクンと跳ねた。
彼女はいつの間にか、口にするのも恥ずかしい病気にかかっていた。
発作が起きると、無性に「したく」なるのだ。
時間も場所も選ばず、仕事や私生活にも深刻な支障が出ていた。
桔依は耐えきれず、勇気を振り絞ってこのプライベートクリニックの婦人科を受診した。
プライバシーが徹底的に守られているのが決め手だったが、診察代は普通の病院の数倍もする。
だが、予約したのは40代の女性主任医師のはずなのに、どうして目の前にいるのは若くて背の高い男の医者なのだろうか。
桔依は極度に緊張し、おずおずと尋ねた。
「絶対に……下着を脱がないとダメですか?」
見知らぬ男の前で下着を脱ぐなんて、相手が医者だと分かっていても、やはり恥ずかしすぎる。
村上颯馬は真顔で答えた。「脱いでもらわないと、診察できないでしょ」
桔依は顔を真っ赤にして、モジモジしながら言った。
「でも、私……」
目の前の男はマスクをしているが、その鋭い視線は底知れず、ミステリアスだ。
突然、彼にベッドへ押し倒され、好き勝手にされるような錯覚に陥った。
桔依は慌てて首を振った。
(なんてこと! なんでそんなこと考えちゃうの?)
相手はただの医者で、1日に何十人もの患者を診ている。
これが彼の日常業務なのだ。
桔依は自分に言い聞かせ、恥ずかしさを必死にこらえてゆっくりと下着を下ろし、診察台に横たわった。
颯馬は消毒の準備をしながら尋ねた。
「どこが痛む?」
桔依の顔が再び赤く染まった。「私、あそこが……」
彼女が言葉に詰まっているのを見て、颯馬は淡々と問い返した。「やりすぎ?それとも傷つけた?」
彼女のような若い女性が婦人科に来る場合、大抵はそれが原因だ。
だが、桔依は顔を赤らめて首を振った。「違います。私、経験がないので……」
颯馬は手を止め、驚いたように彼女を振り返った。
目の前の女性は顔立ちが整っており、肌は水が滴るほど瑞々しい。色気とあどけなさが同居する、目を引くような美貌の持ち主だ。
一度見たら忘れられないほど印象深い。
ーーこれほどの美女なら男には不自由しないはずなのに、経験がないだと?
男の深い眼差しに見つめられ、彼女は赤面しながら口ごもった。
「私……その……あそこが……ちょっと……ムズムズして……」
颯馬が消毒用の綿棒を握る指先が、ふと強張った。
だが表面上は平静を装い、彼女を見据えて言った。「ムズムズする?」
桔依:「……」
(どう説明すればいいのだろう)
彼女は赤い唇を噛み、ためらいながら言った。
「えっと、その……」
颯馬は真っ赤に染まった彼女の顔を見て、わずかに喉を鳴らした。
体の奥から、抑えきれない熱が込み上げてくる。
彼はその衝動を押し殺して尋ねた。「原因は分かるか?」
桔依は言葉を濁した。恥ずかしくてとても言えない。「えっと、その……私……」
性欲が異常に強くて、本当はすごく「したい」なんて言えるわけがない。
結婚して1年以上経つのに、夫の田中翔太は全く彼女に触れようとしない。
しかも、彼女の欲望はどんどん膨らみ、欲求不満は募るばかりだ。
翔太は逆に彼女を避けるようになった。
彼女がそっちの要求をしてくるのを、極端に恐れているのだ。
桔依は仕方なく、自分でなんとか処理するしかなかった。
だが、それでは全然足りない。
ーー欲しい。 もっと欲しいのだ。
颯馬は彼女の反応をうかがいながら尋ねた。「結婚してるの?」
桔依は無意識に頷いた。
なぜか、彼は少しがっかりしたような気分になった。
颯馬は瞳を暗くして言った。「まずは横になって。診察するから」
桔依はおとなしく仰向けになった。
細い両手で、ギュッと拳を握りしめる。
顔から火が出るほど熱い。
颯馬は彼女を見つめ、なぜか少し低く掠れた声で言った。「動くな」
「……」
桔依はただでさえ羞恥心が強く、今や爆発寸前だった。
その上こんな病気を抱えているのに、大人しく診察を受けられるわけがない。
彼女は気まずそうに要望を口にした。
「女性の先生に代わってもらえませんか?」
颯馬はさらに目を細めて言った。「俺じゃ不満?」
桔依は慌てて弁解した。「ち……違います……」
だが、彼女が言い終わる前に、彼は冷たく言い放った。「今日君が予約したのは俺だ。診察を受けたくないなら帰っていいよ」
(なんて意地悪な男。 後で絶対にクレームを入れてやる)
でも、彼女の病気はこれ以上放置できない。
とりあえず、一度だけ彼の腕を信じてみよう。
桔依は彼にお願いした。「他意はありません。先生、どうか私を治してください」
颯馬が代理で診察をするのはこれが初めてだった。
まさかこんな特殊な女性患者に当たるとは思ってもみなかった。
彼女の病気はあんなだし……おまけにこんなに美人だなんて……。
まるで男としての自制心を試されているようだ。
彼は再び喉を鳴らし、低い声でたしなめた。
「無駄口を叩くな」
手袋をはめ、消毒用の綿棒を手に取り、ゆっくりと彼女に近づく……。
桔依は恥ずかしさのあまり、たまらず目を閉じた。
夫の翔太にさえ見せたことがないのに。
今、別の男に見られようとしている。
相手が医者だと分かっていても、どうしても心の抵抗が拭いきれない。
桔依は思わず声を漏らした。
「あっ!」
甘く艶めかしい声だった。
颯馬は頭が痺れ、全身を強張らせながら、少し手を引いた。
「痛かった?」
桔依の美しい瞳は、うっすらと涙ぐんでいた。
赤い唇を開いたが、どう言えばいいのかわからない。
理性では我慢すべきだとわかっているのに、病気のせいで体が勝手に……。
彼女のそのか弱く可憐な姿は、理性を吹き飛ばすほど魅力的だった。
颯馬は軽く咳払いをして視線を逸らし、言った。「じゃあ、優しくするよ」
彼は一心不乱に診察を続けた……。
診察が終わると、桔依はかえって虚無感に襲われ、余計に苦しくなった。
彼女は少し震える声で尋ねた。
「先生、私、すごく悪い状態ですか?」
颯馬は感情を抑え込み、ゆっくりと手袋を外して言った。
「ホルモンバランスの乱れからくるヒステリー症状だ。長期間、行為をしていないことが関係しているね」
ーー行為をしていない?
桔依は目を伏せ、一瞬だけ気まずそうな顔をした。
していないどころか、全く経験がないのだ。
夫の翔太は極度の潔癖症で、付き合っていた頃から結婚して今まで、スキンシップはほとんどなかった。
だが、そうされればされるほど、彼女は逆に飢えていった。
まるで全身の細胞が、抱きしめられたくて、触れられたくてたまらないかのようだ。
颯馬はパソコンの前に座り、薬を処方しながら言った。
「炎症を抑える薬と、ホルモンバランスを整える薬を出しておくよ。
でも、家に帰ったら旦那さんと……もっと回数を重ねることをお勧めする。そうすれば、その症状はかなり和らぐはずだ」
桔依の顔はとうに血が滲むほど真っ赤になっていた。
下着を身につけ、診察台から降りる。
颯馬から処方箋を受け取り、頭を下げた。「ありがとうございました」
彼女が診察室を出た直後、白衣を着た女性医師が裏口から入ってきた。
駆けつけた村上明美が、怒って弟を叱りつけた。
「颯馬、あんた私がいない隙に私の患者を診たわね?」
颯馬は落ち着き払って答えた。「昔、医学部で俺がずっとトップで、姉貴が万年2位だったのを忘れたのか?俺がタダで診てやったんだから、患者にとってはラッキーだろ。それに、今はこの病院全体が俺のモノなんだからな」
明美は彼を睨みつけた。「あんたって子は!」
こいつは本当に屁理屈ばかりだ。
しかし、この弟は昔から潔癖症で女を近づけないのに、今日に限って自ら進んで女性患者を診るなんて珍しい。
颯馬は片手をポケットに突っ込み、桔依が消えた方向を見つめながら言った。「そんなに俺が邪魔なら、もう帰るよ」
明美は慌てて弟を呼び止め、猛プッシュした。「帰るってどこへ? 今日あんたを呼んだのは、うちの病院に新しく来た心臓外科の高橋先生に会わせるためでしょ!若くて美人で腕も良くて、うちの病院のマドンナなのよ。何より今はフリーで彼氏もいないし……」
颯馬は全く興味がなさそうに、適当に返事をしてその場を去った。
「また今度な」
話 2
桔依は診察室をを飛び出すと、薬を受け取り、一目散に病院を後にした。
さっきの診察室での出来事――あの男性医師にズボンを下ろされ、あそこまで診察されてしまった情景が脳裏を掠める。
思わず顔から火が出そうになる。
こんなことが誰かに知られたら、外を歩くことさえ恥ずかしい。
もう二度と、見知らぬ男にあそこを診察されるのはごめんだ。これからは絶対女医にしてもらう。
その時、1台の黒いベントレーがゆっくりと彼女の前に止まった。
桔依は配車アプリで呼んだ車が来たのかと思い、窓越しに中を覗き込んだ。
なんとそこには、輪郭のくっきりとしたイケメンの顔があった。
まるで神が彫り上げたような、非の打ち所がない完璧な顔立ちだ。
桔依の視線が相手と一瞬交わり、どこかで見たような気がした。
その目つき……。 まさか、さっき診察室であんな恥ずかしい診察をしたあの男の医者?
桔依は息を呑んだ。
一瞬で顔が赤くなる。
(なんでこんな偶然、病院の入り口でまた出くわすの?)
颯馬が声をかけた。「乗れよ、送っていく」
桔依は慌てて首を振って断った。「結構です。ありがとうございます」
親しくもないのに、車に乗せてもらうわけにはいかない。
それに、さっき診察台で、あんな恥ずかしい診察をされたばかりだ……。
今、一番会いたくない相手だ。
逃げ出したいぐらいなのに。
これからは会っても他人のフリをするのが一番だ。
颯馬は瞳をわずかに暗くし、眉を片方軽く上げた。
無視できないほどの威圧感が漂う。
女に断られたのは、これが初めてだった。
桔依は男の不機嫌さを察したが、気まずそうに再び手を振った。
「本当に大丈夫です。もうすぐ旦那が迎えに来るので!」
今度は「旦那」という言葉を強調した。
つまり、自分は既婚者だとアピールしたのだ。
「……」
颯馬の口元に、気づかれないほどの冷たい笑みが浮かんだ。
彼は運転手に車を出すよう命じた。
走り去るベントレーの後ろ姿を見送って、桔依はやっと少し息をついた。
しかし、さっきの男の医者が診察室で言った言葉を思い出す。
彼女のこの病気は、長期間夫婦生活がないことが原因だ。
薬はバランスを整えることしかできない。
完全に治すには、やはり男と関係を持つしかない。
今夜はちょうど、旦那の翔太が出張から帰ってくる。
このチャンスを掴まなければ。
桔依は休む間もなくショッピングモールへ向かい、翔太が好むセクシーなネグリジェと、ムードを高める香水を買った。
家に帰ると、長年眠らせていた高級ワインを出した。
彼女の計画はこうだ。まず翔太とお酒を飲み、彼が酔っ払ったところでベッドに誘う。
翔太は極度の潔癖症で、夫婦の営みにはかなり抵抗があった。
結婚してからの1年、彼女が求めてもすべて拒絶されてきた。
そのせいで、桔依は心身ともに大きなストレスを抱えていた。
こんな病気にまでなってしまった今、やむなくこんな手段に出るしかなかった。
準備がすべて整うと、自分がひどく緊張していることに気づいた。
結婚してこんなに経つのに、下心を持って夫を“誘惑”するのは初めてだ。
心臓が飛び出そうなくらい激しく鳴っている。
桔依はまず自分に赤ワインを注ぎ、緊張をほぐした。
……
夜8時、翔太が出張から帰宅した。
パチッ。
真っ暗だった寝室に、パッと明かりが点いた。
ベッドで狸寝入りをしていた桔依は、ビクッと体を震わせた。
目を開けると、無意識にドアの前に立つ背の黒いシルエットを捉えた。
「あなた、お帰りなさい」
彼女はすぐに布団を跳ね除けてベッドから降り、嬉しそうに彼に駆け寄った。
翔太は目を細めた。
今夜の彼女がワインレッドの胸元の開いたキャミソールを着ていることに気づいた。雪のように白い肌が際立ち、メリハリのあるスタイルがあらわになっている。
さらにそのあどけなく色気のある顔立ちも相まって、まさに絶世の美女だ。
彼女が駆け寄ってくるにつれ、魅惑的な香水の匂いが漂ってきた。
男としての本能的な欲望をくすぐってくる。
間違いなく、目の前の女はセクシーで、色っぽく、挑発的だ。
ピュアでありながら妖艶でもある。
しかし、絶対に彼の好みのタイプではない。
彼の漆黒の瞳から欲望が少しずつ消え去り、代わりに冷淡さとよそよそしさが現れた。
翔太は無意識に彼女を突き放して言った。
「疲れてるんだ」
その一言で、桔依の心の中で燃え上がっていた情熱の大部分が一瞬にして冷え切った。
だが、彼女は諦めきれない。
病気はもう待ったなしで、どうしても男と関係を持たなければならないのだ。
ましてや今夜は、彼のためにわざわざ念入りにオシャレをして、いろいろと準備までした。
ここで引き下がるわけにはいかない。
彼女は自分から彼の腕を掴み、優しく提案した。 「あなた、マッサージしてあげようか?」
翔太はまるで汚いものに触れられたかのように、嫌悪感を露わにして彼女を振り払った。「結構だ!」
彼はそのまま大股でバスルームへ向かった。
彼が桔依のそばを通り過ぎた時、はっきりと女の香水の匂いがした。
上品で気高い香り。
絶対に彼女が普段使っている香水ではない。
桔依は呆然と立ち尽くした。
瞳に驚きと疑いの色が一瞬走る。
(まさか翔太、外に別の女がいるの?)
しかし思い直した。翔太はよく外で接待をしている。
たまに女の香水の匂いが移ったからといって、浮気の証拠にはならないはずだ。
それに翔太は極度の潔癖症だ。妻の自分にすら触れたがらないのに、外の女なんてもってのほかだろう。
桔依はそう自分に言い聞かせた。
歩み寄って翔太のグラスに赤ワインを注ぎ、当初の計画通り、まずは彼を酔い潰すことにした。
30分後、翔太がバスルームから出てきた。
彼は白いバスローブを羽織っただけで、帯は結ばず、胸元の引き締まった筋肉がチラチラと見え隠れしている。
小麦色の肌が、薄暗いオレンジ色の照明の下で極度に妖艶に見えた。
両脚はスラリと長くまっすぐだ。
さらにその端正で禁欲的な顔立ちも相まって、桔依は危うく見惚れてしまうところだった。
本能的に喉の渇きを覚える。
久しぶりだからか、それとも彼がずっと冷たい態度だったせいか、突然こんな姿を見せられて、桔依の心はすっかり乱れてしまっていた。
桔依は思わず生唾を飲んだ。
視線がふと、引き締まった腰から下へと向かう……。
ーーヤバい!
なんだかますますそっちの欲望が強くなっているような気がする。
翔太の低く厳しい声が不意に響いた。
「何を見てる?」
桔依はビクッと震え、すぐに我に返って慌てて首を振った。
「なんでもない!」
翔太の体をいやらしく見ていると思われ、これ以上嫌悪されるのを恐れたのだ。
彼女は口角を上げて微笑み、手元の赤ワインを手に彼へ歩み寄りながら言った。「あなた、一杯どう?」
翔太には寝る前に一杯飲む習慣があるのを知っている。
しかし今夜は、彼女がそう言っても、翔太はしばらくの間沈黙したまま何も答えなかった。
桔依は思わず後ろめたさを感じた。
(もしかして、計画がバレた?)
彼女は諦めきれず、甘ったるい声を出して彼にすり寄った。「ねえ……」
さらに酒を勧めるつもりだったが、翔太が突然振り向き、意味深な視線を彼女に向けた。
「こんな時間だ。まだ寝ないのか?」
桔依は一瞬、パッと顔を輝かせた。
彼も自分と「寝る」気があるのだと思った。
彼女はすぐにワイングラスを傍らのナイトテーブルに置いた。
「うん、今すぐ寝る!」
興奮してベッドに上がろうとしたが、彼女の細い手が彼に触れるより早かった。
翔太は突然彼女の手首をガシッと掴み、眉を上げて鼻で笑った。「まさか、今夜俺がお前を抱くと思ってないだろうな?」
話 3
桔依の整った顔が強張り、笑顔が凍りついた。
翔太は、彼女の瞳の奥をかすめた失望の光を見逃さなかった。
それでも彼は、冷たく言い放った。「悪いが、何度も言っている。俺は潔癖症だ」
桔依はすがるように訴えかけた。「でも、あなた……私……」
今の彼女は極度の欲求不満により心身のバランスを崩しており、どうしても男の手を借りて発散する必要があった。
もう、限界だった。
「情けだと思って……苦しいの……お願い……」
彼女は下唇を噛み、潤んだ瞳で愛らしく儚げに彼を見つめた。
呼吸さえも荒くなっていた。
本当に、切実に欲しかった。
頭の中は、そのことでいっぱいだった。
全く抑えがきかない。
翔太は眉を強く顰めた。
自分の前でいつも発情したようにすり寄ってくる彼女の姿に、嫌悪感を抱いていた。
彼は冷酷に言い放った。「そんなに発情して疼くなら、自分で処理しろ」
その冷淡で軽蔑に満ちた言葉は、桔依の心の最も脆い部分を容赦なくえぐった。
だが翔太は、彼女の傷ついた表情など意に介さなかった。
そして、冷ややかに釘を刺した。「二度と、そんな格好で俺の前に現れるな」
桔依の潤んだ瞳から、スッと光が消えた。
胸の奥で、ズキズキとした痛みが波紋のように広がっていく。
夫はやはり、自分に触れようとはしない。
「……分かったわ」
彼女はうつむき、力なく答えた。
その声は、ひどく虚ろだった。
「それから、今日から俺と同じ部屋で寝るのはやめてくれ」 翔太は嫌悪のこもった視線を向け、冷酷に告げた。
桔依は顔を上げ、驚愕の表情を浮かべた。
「え?」
それはつまり、家庭内別居ということだろうか。
「俺は隣の部屋で寝る。これからは、俺の許可なく勝手に部屋に入るな」
それだけ言い残し、翔太はベッドを降り、一切の未練もなく寝室を出て行った。
残された桔依は、呆然と立ち尽くす。
瞳にじわじわと涙が滲んでくる。
翔太と結婚して1年。
長すぎるレス生活と、氷のような夫の態度のせいで、 彼女はすっかり心身のバランスを崩していた。
だが、夫である翔太は彼女の欲求を満たそうとするどころか、こんな時に別室にすると言い出したのだ。
桔依にとって、それはまさに泣きっ面に蜂だった。
翔太が去った後、ほんの少し温もりを取り戻しかけていた寝室は、再び凍りつくように冷え切ってしまった。
しかし、桔依の体内でくすぶる熱は、少しも引く気配がない。
むしろ、激しく燃え上がりつつあった。
翔太の冷淡な態度が、彼女を深く傷つけた。
そのストレスが、再び発作を引き起こしたのだ。
桔依は今、全身が異常なほど疼いて仕方なかった。
猛烈な欲求不満が全身を駆け巡る。
「うぅ……苦しい……欲しい……」
頬が熱く火照る。彼女の脳裏には、今日診察室のベッドで、あの男性医師にされたことが、無意識のうちにフラッシュバックしていた。
(なんてこと!)
桔依は慌てて首を振った。
(なんで、あの医者のことを思い出してるの?)
(私にはれっきとした夫がいるのに。それなのに、 それなのに、気づけば他の男にいけない想像を巡らせてしまうなんて……)
(だらしなくなったの?)
(でも、翔太は私に指一本触れようとしない)
今の彼女にとって、夫はいないも同然だった。
桔依の頭に、再びあの男性医師の姿が抑えきれずに浮かび上がる。
特に今日、病院の入り口で、彼に車に乗るよう促された時のこと。
彼女は、彼のマスクの下の素顔を見てしまったのだ。
本当に、息を呑むほどイケメンだった。
翔太よりも、ずっと。
(もし、彼とヤれたら……)
桔依は慌てて邪念を振り払った。
いくら翔太が触れてくれないからといって、他の男を欲求の捌け口にするなんてダメだ。
そんなの、精神的な不倫と変わらない。
だが、桔依の理性はもう限界だった。
震える手でベッドサイドの引き出しを開け、中から「それ」を取り出す。
結婚してからのこの1年、翔太に拒絶され、発作が起きるたびに。
彼女はいつも翔太のことを思い浮かべながら、自分で処理してきた。
しかし今夜は、少し違っていた。
脳裏に浮かぶのは、翔太ではなく。
あの、男性医師の姿だったのだ……。
……
やがて、桔依は激しい波からようやく解放された。
口元には、微かな涎の跡すら残っている。
全身の力が抜け、ぐったりとしていた。
荒い息を吐きながら、彼女はこれではダメだと痛感していた。
桔依は急いでベッドから這い出し、バッグを開けて、今日病院で処方された薬を取り出した。
寝室のポットには、もうお湯が残っていない。
彼女は適当な上着を羽織り、薬を飲むための水を取りに、1階のキッチンへと向かった。
隣の部屋――夫である翔太の寝室の前を通りかかった時、ふと、中から男の押し殺したような怪しげな声が聞こえてきた。
桔依はもう、何も知らないウブな少女ではない。
そのくぐもった声が何を意味しているかなど、嫌でも分かっていた。
彼女はとっさに、少しだけ開いたドアの隙間から中を覗き込んだ。
薄暗い部屋で、翔太がベッドの端に腰掛け、1枚の写真に向かって――。
彼は喉仏を上下に動かし、掠れた声で何度も絶え間なく呟いていた。「莉子、俺の妻……お前だけだ……お前だけを愛してる……」
ドクン――。
桔依の頭の中で、何かが爆発するような音がした。
信じられないといった様子で目を見開いた。
(莉子?)
(本妻の娘?)
中島家の正真正銘の令嬢、中島莉子。
彼女の父、中島健一は正室の他に、愛人を持ち、そこに彼女が生まれた。
正妻である阿保雅子との間に生まれたのが、娘の莉子。
愛人である油谷優子との間には、一男一女が生まれた。
息子の中島涼太は、中島家唯一の男児であったため、生まれてすぐに正妻の雅子の養子に出された。
誰からも愛されなかった末娘の彼女だけが、実母である優子の元で育ったのだ。
だが、幼い頃から母親の優子にも冷遇されていた。
優子は彼女よりも、手放した息子の涼太や、正妻の娘である莉子を可愛がっていた。
桔依の結婚についても、優子は全く関心を示さなかった。
父親と正妻の雅子に丸投げだった。
だが、翔太と結婚する前、桔依自身もこっそり素行調査を行い、「翔太は中島家の令嬢を好いている」という確証を得てから嫁いだのだ。
あの時の彼女は、翔太が好きなのは「自分」のことだと思い込んでいた。
今思えば、ひどい勘違いだった。
翔太の心にいるのは、実は異母姉の莉子だったのだ。
翔太は私生児という身分ゆえに莉子には不釣り合いで、妥協して彼女を選んだに過ぎなかった。
だが、結婚後、翔太は極度の“潔癖症”を理由に、彼女に指一本触れようとしなかった。
桔依はそれを真に受けていたのだ。
今この瞬間になってようやく、自分の甘さに気づいた。
翔太は自分で処理してでも、彼女には絶対に触れたくなかったのだ。
(そう——彼は、姉の莉子に操を立てていたのである)
幼い頃から、中島家の人間はみんな莉子のことが大好きだった。
父親は彼女を蝶よ花よと溺愛した。
正妻も後妻も、彼女を宝物のように扱った。
いつだって、中島家で邪魔者扱いされるのは桔依だけだった
父親も、本妻の雅子も、実母の優子でさえも、誰も彼女を愛してくれなかった!
結婚すれば、新しい人生をやり直せると思っていたのに。
まさか、夫の翔太が想いを寄せているのも姉の莉子だったなんて。
桔依は、とてつもない皮肉を感じた。
今、夫が姉の莉子の名前を何度も呼ぶ声を聞いていると、 まるで容赦なく何度も平手打ちを食らわされているような気分だった。
呆然とする中、結婚前に翔太が何度も中島家を訪れていた光景が蘇る。
あの頃の彼は、穏やかで辛抱強く、絵に描いたような好青年だった。
来るたびに、彼女にプレゼントを買ってきてくれた。
だからこそ、桔依も彼に強く惹かれたのだ。
しかし今思えば、彼が中島家に来ていた目的は、彼女のためなんかじゃなかった。
全ては、姉の莉子のためだったのだ。