話 1
夫と娘, そして夫の愛人.
三人が仲睦まじく笑う写真を見ても, 私の心はもう動かなかった.
重度の蕎麦アレルギーがある私に, 愛人は嘲笑いながらクッキーを渡してきた.
呼吸困難で床にのたうち回る私を, 夫は冷酷に見下ろした.
「また演技か? いい加減にしろよ」
その直後, 愛人が「足が痛い」と嘘をつくと, 夫は迷わず彼女を抱きかかえて出て行った.
残された私に, 実の娘である結月がリンゴを投げつけ, 無邪気な悪意を向ける.
「あんたなんかママじゃない! 江美ママの方がいい匂いするもん, 早く死んじゃえばいいのに! 」
薄れゆく意識の中で, 私は悟った.
私が命懸けで守ってきた家族にとって, 私はただの邪魔なゴミでしかなかったのだ.
自力で救急車を呼び, 一命を取り留めた私は, 震える手で離婚届にサインをした.
数年後, 全てを失った夫と娘が泣きついてきたが, 私は冷たく言い放った.
「私の人生から消えてください」
第1章
(坂上杏樹 POV)
目の前の白い紙に書かれた文字は, 私の人生の終わりを告げていた.
いや, 終わりではない.
これは, 新しい人生の始まりだ.
震える指先でペンを握り, 私の旧姓である「坂口杏樹」と, 現在の姓である「坂上杏樹」を書き込んだ.
離婚届.
この一枚の紙が, 私を何年も縛り付けていた鎖を断ち切る.
鏡に映る自分の顔を見た.
疲れて, くすんで, 生気のない目.
そして, いつも長袖で隠している右腕の火傷痕.
それは, かつて私が守ろうとした小さな命の証だったけれど, 今の私には, ただ見苦しいだけのものに思えた.
スマートフォンが震えた.
結月からのメッセージだった.
添付された写真を開く.
そこには, 夫の博信と, 娘の結月, そして高崎江美が写っていた.
三人とも, 心から楽しそうに笑っている.
博信の顔には, 私に向けられることのなかった柔らかな笑顔が浮かんでいた.
結月も, 無邪気に江美の手にぶら下がっている.
江美は, まるでこの家の本当の母親であるかのように, 中央に立っていた.
私の心は, 何も感じなかった.
怒りも, 悲しみも, 嫉妬もない.
ただ, どこまでも冷たい, 深い空虚だけが広がっていた.
それはまるで, 感情というものが, とっくの昔に私の体から抜け落ちてしまったかのようだった.
数日前, 結婚十年記念日だった.
同時に, 私の誕生日でもあった.
博信は, 私との約束をすっぽかした.
その日の夜, SNSで流れてきたのは, 高級レストランで江美と結月を連れて食事をする博信の姿だった.
「お前のような地味な女は, こういう場所には連れて行けないんだ」
そう言われたのは, 私がその写真について問い詰めた時だった.
彼の言葉は, 私の心臓を氷漬けにした.
江美は, 手土産だと言ってクッキーを渡してきた.
私は重度の蕎麦アレルギーだということを, 彼女は知っていたはずだ.
そのクッキーには, 蕎麦粉が混入されていた.
私は, 呼吸困難に陥った.
体が熱くなり, 喉が締め付けられ, 意識が遠のいていく.
「また演技か? いい加減にしろよ」
博信は, 私を冷酷に見下ろした.
その時, 江美が突然「足が痛い」と言い出した.
博信は, 何の迷いもなく江美を抱え上げ, 病院へと向かった.
私は, 床に倒れたまま放置された.
死ぬかと思った.
自力で救急車を呼び, 何とか一命を取り留めたけれど, その時の博信の顔は, 一生忘れられないだろう.
私を, 本当にどうでもいいゴミのように見ていた.
深夜, 博信と結月が帰宅した.
玄関のドアが開く音に, 私の体は反射的に硬直した.
博信は, 私の存在に気づくと, 眉間に深い皺を寄せた.
「まだ起きてたのか. 気味が悪い」
結月は, 私を一瞥すると, 露骨に嫌悪感を露わにした.
「臭い. 江美ママの方がずっといい匂いするもん」
その言葉は, 私の心臓を直接掴んで握り潰すかのようだった.
私の体は震えたけれど, 声は出なかった.
博信は, 苛立ちの滲んだ声で言った.
「お前が江美に喧嘩を売ったせいで, 結月が不機嫌になっただろうが」
「謝れよ. 江美がせっかくお前に気を遣ってくれたのに, お前は恩を仇で返した」
彼の言葉は, 無数の針となって私の心を突き刺した.
私は, ソファに沈み込んだまま, 何も言えなかった.
反論する気力も, 意味も見出せなかった.
彼は, 私の返事を待たずに続けた.
「お前には, 本当に失望した. 何一つできないくせに, 文句ばかり言う」
「お前みたいな役立たず, この家にいる価値なんてないんだよ」
彼の声が, 私の耳元で木霊する.
「もしこれ以上騒ぐなら, この家から出て行ってもらうからな」
その言葉は, 私にとって何の脅しにもならなかった.
むしろ, 希望の光のように感じられた.
博信は, 私が何も言わないことに苛立ちを覚えたのか, 乱暴に寝室へと入っていった.
結月は, 私を睨みつけながら, 食卓にあったりんごを手に取った.
そして, そのりんごを私の頭目掛けて投げつけた.
「あんたなんか, ママじゃない! 早くどこかへ行っちゃえ! 」
りんごは私の額に当たり, 鈍い痛みが走った.
結月は, さらに罵声を浴びせた.
「江美ママが言ってた! あんたみたいなブスは, パパを騙して結婚したんだって! 」
「本当のママは, 江美ママになるはずだったんだ! 」
結月の無邪気な顔から発せられる悪意の言葉に, 私の視界は歪んだ.
私の脳裏に, かつての結月の姿が蘇る.
小さな手で私の指を握り, 満面の笑みで「ママ, だーいすき! 」と言ってくれた, あの頃の結月.
「あんたなんか, 早く死んじゃえばいいのに! 」
結月は, 口元を歪めて叫んだ.
その憎悪に満ちた瞳は, まるで江美を映しているかのようだった.
分かっていた.
江美が, 結月に吹き込んだのだ.
純粋だった娘の心を, 歪ませたのだ.
私の心は, 完全に砕け散った.
いや, 砕け散るほどの何かは, もう残っていなかったのかもしれない.
ただ, 深い, 深い悲しみと, 空虚感だけが残った.
私は, ゆっくりと立ち上がった.
バスルームへ向かい, 鏡に映る自分を見つめた.
水で濡らしたタオルで, 額の青くなった部分を冷やす.
冷たい水が, 私の熱を帯びた感情を洗い流すかのようだった.
感情など, もうどこにも残っていなかった.
博信が, 過去に江美のことで私に突きつけた離婚届.
その時, 私は泣きながら彼に許しを請い, この家と, 彼と, 結月を失うことを恐れて, 彼の言葉を全て受け入れた.
彼には, 私がこの家を, 彼を, 結月を, どれほど愛しているか, そしてどれほど離れることを恐れているか, 確信があったのだろう.
だからこそ, 彼は私を何度も侮辱し, 傷つけ, 虐げることができた.
私の愛は, 彼にとって, 私を操るための道具でしかなかった.
けれど, もう違う.
私の心は, もう死んだ.
私は, 乾いた手で, 先ほど書き込んだばかりの離婚届をそっと撫でた.
これが, 私の新しい人生の扉を開く鍵だ.
博信, 結月.
あなたたちに, もう私の人生は不要なのだ.
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話 2
(坂上杏樹 POV)
冷たい風が, 私の頬を撫でた.
病院のベンチに座り, 吐く息が白く染まるのを見つめる.
冬は, もうすぐそこまで来ていた.
薄手のコートをぎゅっと握りしめ, 体を縮こませる.
博信が, 私を庭に閉め出した時のことを思い出した.
「反省するまで, そこから動くな」
そう言われ, 私は何時間も, 本当に何時間も震えながら庭に座っていた.
あの頃の私は, なぜあそこまで彼に執着していたのだろう.
「杏樹」
低い声が, 私の耳元で響いた.
博信の手が, 私の肩に触れる.
ぞっとするほどの嫌悪感が, 全身を駆け巡った.
私はゆっくりと目を開けた.
彼の瞳には, どす黒い欲望の光が宿っていた.
かつての私なら, 彼のこの視線に, ほんの少しの期待を抱いたかもしれない.
彼が私を求めている, と.
けれど, 今の私には, 彼の視線はただ, 汚らわしいものにしか映らなかった.
私は, 彼の手に触れられた肩をそっと払い除けた.
「体調が, まだ良くないので」
私の声は, 驚くほど冷静だった.
博信は, 私の返答に, 不機嫌そうな顔をした.
「まだ怒ってるのか? 江美のことか? 」
彼は, 私の顔を覗き込んだ.
「あいつとは, ただの友人関係だ. お前が勝手に騒ぎ立ててるだけだろう」
「もっと寛大になれないのか? 」
彼の言葉は, まるで響かなかった.
私は, 再び目を閉じた.
彼の声は, 遠くで犬が吠えている音のように, ただの雑音として耳を通り過ぎていった.
博信は, 私の反応に苛立ちを募らせた.
「おい, 杏樹! 聞いているのか! 」
彼は, 語気を強めた.
「江美が言っていたぞ. お前は本当に, つまらない女だって」
彼の言葉に, 私の心は微塵も動かなかった.
動くべき感情が, もう私には残されていなかった.
「いいだろう. そこまで言うなら, もう二度とお前に触れない」
博信は, そう言い捨てると, 乱暴に立ち上がり, ドアをバタンと閉めて部屋を出て行った.
私は, ゆっくりと目を開けた.
かつての私は, 彼の言葉に怯え, 彼の態度に傷つき, 彼に嫌われることを恐れて, 彼の機嫌を取ろうと必死だった.
どれほど, 愚かだったのだろう.
もう, 何もない.
何も, 残っていない.
次の日の朝, 私は博信と結月の朝食を用意しなかった.
ゆっくりと淹れたコーヒーを飲みながら, 窓の外を眺める.
離婚届は, すでに提出済みだ.
あとは, 成立を待つだけ.
私は, 小さく微笑んだ.
自由だ.
やっと, 自由になれる.
過去の自分を, 嘲笑したくなった.
彼に, 結月に, どれほどの時間を, 心血を注いできたのだろう.
それは, 全て無駄だった.
スマートフォンがまた鳴った.
江美のSNS投稿だった.
「博信とラブラブな朝食♡」
そう書かれたキャプションの下には, 博信が江美に朝食を作ってあげている動画が添付されていた.
博信の顔には, 私に向けられることのなかった, 穏やかな笑顔が浮かんでいる.
まるで, 完璧な夫を演じているかのように.
私は, 博信が台所に立つ姿など, 見たことがなかった.
彼は, 料理が嫌いだった.
「お前が作ればいいだろう」
それが, 彼の口癖だった.
動画を一瞥し, 私はスマートフォンをソファに投げつけた.
彼が, 江美に朝食を作ってあげていようが, 江美と恋人のような関係を築いていようが, もう私には関係ない.
彼が離婚を申し出るなら, 喜んで受け入れよう.
結月が, 階段を降りてきた.
私の存在を無視して, 冷蔵庫を開ける.
「ママ, 朝ごはんまだ? 」
結月は, 私を睨みつけた.
「なんで朝ごはんがないの? 早く作ってよ! 」
その声には, 苛立ちと, 当然の権利を主張する響きが混じっていた.
私の心は, 何も感じなかった.
目の前にいるのは, かつて私が命懸けで守り, 愛した娘ではない.
「朝ごはんは, ないわ」
私の声は, 驚くほど平坦だった.
「パンとフルーツならあるけど, どうする? 」
結月は, 私の言葉に驚いた顔をした.
けれど, すぐにいつもの悪意ある表情に戻った.
「あんた, 調子に乗らないでよ! パパに言いつけるからね! 」
「大丈夫. 江美ママに作ってもらえばいいんじゃない? 」
私は, そう言い残し, 立ち上がって寝室へと向かった.
クローゼットを開ける.
中には, 博信が結婚当初に買ってくれた服がいくつかあったけれど, この数年間, 新しい服は一枚も増えていなかった.
博信は, いつも私に生活費を渡すのを渋った.
「お前は, 金遣いが荒い」
それが, 彼の口癖だった.
けれど, 江美には惜しみなく高価なプレゼントを贈っていたことを, 私は知っている.
私は, 無感情な表情で, まだ着られそうな服をいくつか選んでバッグに詰めた.
そして, そのまま家を出た.
マンションの入り口で, バラの花束を持った博信と鉢合わせした.
彼は, 私を見て, 驚いた顔をした.
私は, 彼を一瞥し, 手元のバッグをそのままゴミ箱に捨てた.
「おい, 杏樹! それ, 俺が買ってやった服だろうが! 」
博信の声が, 背後から聞こえた.
「もうサイズが合わないから」
私は, 冷たい声でそう言い捨て, 彼に背を向けた.
彼の顔には, 焦燥と, 今まで見たことのない不安の色が浮かんでいたけれど, もう私には関係ない.
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話 3
(坂上杏樹 POV)
博信は, 私の返事を待たずにリビングに入ると, バラの花束をテーブルに乱暴に置いた.
「お前が江美に嫉妬してるのは分かってる. でも, 謝るべきはお前の方だろう」
彼の言葉は, 私の心を掻き乱すことなく, ただ虚しく宙に消えていった.
「このバラは, お前のために買ってきたんだ. 素直になって, 江美に謝れば許してやる」
彼は, 私を見下ろしながら, まるで私が彼の施しを喜んで受け入れるとでも思っているかのような, 傲慢な表情を浮かべた.
私は, テーブルの上のバラを一瞥した.
すでに花びらの端が茶色く変色し, 萎れかけている.
博信が, 江美に贈るために買ったバラの, 売れ残りか.
あるいは, 一度江美に渡して, 受け取ってもらえなかったものか.
私の心に, 冷たい嘲笑が広がった.
彼は, 私を本当にゴミのように扱っている.
私は, ソファに座ったまま, 何も言わなかった.
博信は, 私の沈黙に苛立ちを募らせた.
「おい, 杏樹! いい加減にしろ! 」
彼の声が, リビングに響き渡る.
「これ以上, 俺に迷惑をかけるな」
私は, 鼻をつまみ, 顔を顰めた.
「すみません. 私, 花粉アレルギーで. 少し, 息苦しいです」
私の言葉に, 博信は目を見開いた.
彼は, 私が花粉アレルギーであることを, すっかり忘れていたようだった.
いや, そもそも知ろうともしていなかったのだろう.
彼の顔に, 怒りの色が浮かび上がる.
「お前は, 本当に厄介な女だな! 」
彼は, テーブルの上の花束を掴み, そのまま私の顔目掛けて投げつけた.
バラの花びらが, 私の顔に散らばる.
私は, 咄嗟に腕で顔を覆った.
花粉が, 鼻腔に入り込む.
肌が, 赤く腫れ上がっていくのを感じた.
呼吸が, 苦しくなる.
「そんな不細工な顔で, 江美と張り合おうなんて, 笑わせるな! 」
博信は, 私の顔を見て, 嘲笑した.
「お前みたいな女に, 俺が未練があるわけないだろうが」
「感謝しろよ. 俺がお前と離婚しないのは, 結月のためだ」
「もし, これ以上俺に逆らうなら, 本当にこの家から追い出すからな! 」
彼の言葉は, 私の心を深く抉った.
その時, 階段から結月の声が聞こえた.
「パパ! どうしたの? 」
結月は, 私に散らばったバラの花びらを拾い上げ, 満面の笑みで私の顔に投げつけた.
「ブス! 早く出て行け! 」
博信は, 結月の手を引き, 私を一瞥することもなくリビングを出て行った.
「杏樹, またこんなことして. 次はないからな」
彼の冷たい声が, 私の耳元に響いた.
その後ろ姿は, 私を完全に置き去りにしていた.
私は, 床に倒れたまま, 呼吸が苦しかった.
喉が締め付けられ, 意識が朦朧としていく.
震える手で, ソファに置いてあったスマートフォンを探し, 友人の番号に発信した.
「ハァ, ハァ…」
「もし, もし杏樹? 」
友人の声が, 遠くで聞こえたような気がした.
そこから, 私の意識は途切れた.
次に目覚めた時, 私は病院のベッドの上にいた.
体中の痛みが, 私を現実に引き戻した.
また, 彼らに殺されかけた.
これまでの苦痛が, まるで走馬灯のように脳裏を駆け巡る.
けれど, もうすぐ, この苦痛から解放される.
友人が, 心配そうな顔で病室に入ってきた.
「杏樹! 大丈夫なの! ? 博信があんなひどいこと言うなんて! 」
友人の声には, 怒りがこもっていた.
「あいつ, お前が危篤だって言ったら, 『ざまあみろ』って言ったんだぞ! 」
私は, 小さく苦笑した.
「もう, いいの. 離婚したら, 彼とは何の関わりもないわ」
友人は, 私の言葉に驚いた顔をした.
けれど, すぐに「そうよね! 杏樹はもっと幸せになれるわ! 」と, 力強く私の手を握ってくれた.
私の心は, 静かに頷いていた.
もう, あの地獄には戻らない.
私は, 解放される日を, ただ待つだけ.
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