話 1
闇夜に紛れ、長い林道の凸凹で車は何度も大きく弾んだが、やっと走行音が静かになった。。
車内では、宮沢凪佳が窓の外へ視線を向けたまま、ぼんやりと息を漏らした。スカートの裾に目を落とし、軽く皺を伸ばしてから、再び夜景に視線を戻す。
桐谷蓮司は彼女の思いに浸る様子を見守り、小さく苦笑いした。彼女が耳まで赤く染まるのをじっと見つめ、やがて低い笑い声を漏らす。「明日、うちに来いよ」
明日は……彼女の誕生日だ。
(まさか、蓮司は覚えていてくれたのか?)
凪佳の瞳に一瞬、驚きと喜びの色がが灯った。
しかし、男が続けた言葉は、その微かな灯りを見事に消し去った。「明日は澪智が客として来るんだ。 あいつは体が弱いから、メニューを送っておく。しっかりした食事を用意してくれ」
「かしこまりました、社長」胸が締めつけられるような思いだったが、彼女は従順に応えた。
蓮司が言う「澪智」とは、緒方澪智のことだ。彼が長年想いを寄せている人である。
澪智は長年海外で医学を修め、優れた研究成果を挙げたと聞いている。今週、帰国したばかりだった。
本物の彼女が帰ってきた以上、身代わりの粗悪品である自分は、そっと退くときなのだろう。
凪佳は苦笑いを浮かべた。「私は……いつ頃、ここを去ればよろしいでしょうか」
蓮司はまるで冗談でも聞いたような顔をした。「お前が初めて好きになったのは、俺だろ?それなのに、簡単に離れられると思ってるのか?」
凪佳は十八の、もっともはかなげな年に──あの日、彼の胸で鼓動を預けた。世間知らずだった彼女も、今では彼のまなざしに魅せられ、まるで未知の景色へ踏み出したようだった。
澪智は医学博士で、帰国後はトップクラスの医療企業に入社する予定だ。おそらく蓮司に付きっきりでいるような暇はないだろう。
これからも、ベッドの上では凪佳の出番があるというわけだ。
男の視線に、凪佳は顔を真っ赤に染めた。震える声が唇の隙間から漏れる。「確かに、あなたが私の初恋でした。でも、最後の人とは限りません。」 私は愛人なんて御免です。 素敵な男性を見つけて結婚し、自分らしく生きていきます!」
蓮司は彼女を一瞥し、 さっと財布からキャッシュカードを一枚抜き出して差し向けた。「俺たちの関係が終わるかどうか、お前が決めることじゃない」
彼は鼻で笑い、言葉を継いだ。「お前の家族が、それを許すかな?」
その一言で、凪佳は全身の血液が凍りつく思いだった。
彼女はカードを受け取らず、惨めな姿で車から逃げ出した。
屈辱的な記憶が蘇ってきた。
あの頃、凪佳の父である柏木正雄と次兄の悠真が、とてつもない額の借金を抱え込んでいた。 さらに、海外留学中だった長兄の柏木崇史には高額な学費が必要だった。
唯一の稼ぎ頭だった三兄の柏木優斗は、蓮司の会社で秘書を務めていた。
彼はその借金を返すため、ある接待の席で、凪佳を蓮司に差し出したのである。
あの日、凪佳は初めて“ドキドキが痛いほど”を知った。ぎこちない自分に戸惑い、頬が熱くなるのを止められなかった。
だが、蓮司は異常なほど優しかった。
愛に飢えていた凪佳は、彼が一晩中「澪智」の名を呟いていたにもかかわらず、愚かにも彼に恋をしてしまった。
後になって知ったことだが、彼女が蓮司の目に留まったのは、澪智に面影が似ており、同じ医学を専攻していたからに過ぎなかった。
凪佳は澪智よりいくつか年下だったが、才能に恵まれ、わずか二年で大学の単位をほぼ取得していた。
だが蓮司の独占欲に縛られ、卒業目前で医師への夢を断念させられた。
代わりに、表向きは彼の専属栄養管理士となり、影では特別な存在として生きることになった。
蓮司が自分の体だけに執着しているとわかっていながら、彼女は卑屈にも、澪智が永遠に帰ってこないという儚い夢を見続けていた。
そうすれば、少なくともずっと彼のそばにいられるから。
そして今日、その夢は冷たい現実によって粉々に砕かれた。
……
桐谷家の邸宅。
凪佳はキッチンで黙々と作業をしていた。
心ここにあらずといった様子で、うっかり手の甲を火傷してしまう。上げた悲鳴に対し、蓮司は呆れたように言った。「なんでそんなに不注意なんだ」
彼はちらりと視線を落とすと、背を向けて冷蔵庫を開け、氷を取り出そうとした。
凍りついていた凪佳の心臓がわずかに温かさを取り戻しかけた、その瞬間……。
ドアが開き、澪智が優雅に姿を現した。
完璧なメイクと上品な物腰。白鳥のように自信に満ちた彼女の前では、凪佳は醜いアヒルの子でしかなかった。
そして、アヒルの子に向かおうとしていた蓮司の足は即座に翻り、急いで白鳥のもとへと駆け寄った。
その後、彼が凪佳に視線を向けることは一度もなかった。
凪佳は赤く腫れた手の甲を見つめ、自嘲気味に笑い、涙をこぼした。
「今日の料理、全部私の好物だわ。蓮司、よく覚えていてくれたわね」 食事の席で、澪智はテーブルいっぱいの料理を見て感動したように言った。
だが凪佳の心臓は締め付けられ、またも刃物で刺されたような痛みが走った。
これらの料理は、蓮司が日常的に好んで食べるものでもあったのだ。
(そうか……彼の好みでさえ、すべて澪智さんに合わせたものだったんだ)
彼女が知っていると思っていた「桐谷蓮司」は、すべて緒方澪智の影で構成されていたのだ。 二人はとっくに分かち難い絆で結ばれていた。たとえ澪智が遠い異国にいたとしても。
(今まで、どうして全く気づかなかったのだろう?)
普段は気難しい桐谷夫人も、澪智には十二分に満足しているようだった。「澪智、今回帰国したらもう行かないんでしょう?蓮司との結婚話も進められるわね」
澪智は恥ずかしそうに蓮司をちらりと見た。「おば様、私、長く海外にいたでしょう?蓮司に心に決めた人ができたんじゃないかって心配で。彼の良縁を邪魔するわけにはいきませんもの」
澪智の視線の端が凪佳に向けられ、何かを暗示しているようだ。
桐谷夫人は嫌味たっぷりに言った。「同じテーブルを囲めたとしても、桐谷家が身分の低い者を嫁に迎えることは絶対にない」 彼女は笑顔で澪智に向き直った。「あなたのような知的な博士こそ、蓮司にふさわしいわ」
蓮司は微笑みながら澪智にスープをよそい、優しく、そして断言した。「澪智、最初から最後まで、俺にはお前だけだ。 外のくだらない噂なんて信じるな」
澪智は器を受け取り、恥ずかしそうに一口すすると、それ以上は何も言わなかった。
凪佳は唐突に悟った。今日、蓮司が自分を呼び出したのは、栄養管理の料理を作らせるためだけではない。
もっと重要な目的は、自分との間に何の関係もなく、将来的にも可能性がゼロであることを、澪智の目の前で証明するためだったのだ。
胸を抉るとは、このことだ。
凪佳は込み上げる苦味を飲み込み、適当な理由をつけて席を立った。
火傷の痛みが、頭を冷やしてくれる。凪佳はスマホを取り出し、長く着信拒否にしていた連絡先を探した。涙が滲む中、震える指で一通のメッセージを送った。
「高嶺さん、以前あなたがおっしゃっていた『結婚』のご提案……まだ有効でしょうか。今の私なら、その話に乗ってもいいと思っています」
話 2
メッセージを送ってからかなりの時間が経ち、凪佳がマンションのエントランスに着いても、まだ返信は来ていなかった。
彼女は心の中で自嘲した。
高嶺颯真は若くしてその名を知られた天才的な機長だ。三年前に自分が拒んだ相手。きっととっくにブロックされているに違いない。
車窓の外で大粒の雨が落ち始め、凪佳は小さく息をつき、傘を開いて車を降りた。
アパートに戻る途中、三番目の兄・柏木優斗から電話がかかってきた。
『凪佳、お前の退職届、俺が削除した。 お前は自分勝手すぎる。悠真兄さんは留学の学費がいるし、崇史兄さんも起業資金が必要だ。 桐谷社長がいなくなったら、全員路頭に迷うんだぞ!』
昨夜、散々な別れ方をしたあと、凪佳は退職メールを送っていた。それが優斗に見つかってしまったらしい。
凪佳は説明するしかなかった。「優斗兄さん……桐谷社長の想い人が帰国したの。二人、もうすぐ結婚するって』 声が震える。だが、口調は異様なほどきっぱりとしていた。『私……不倫の相手にはなりたくない』
『凪ちゃん、これもお前のためを思ってのことだ 学歴もない、背景もない、三年も桐谷社長に囲われてたんだ。もう高くは売れないぞ』 優斗の語調は穏やかだったが、一言一言が凪佳の胸に鋭く突き刺さった。
『売るって……何言ってるの!』凪佳は目を見開いた。
『女なんてそんなもんだろ。若くて、きれいなうちに金づるをつかまえろ。 兄ちゃんの言うこと聞け。桐谷社長についていけ。 甘えるな』
電話はそれきり切れた。
暗くなった画面を見つめ、凪佳は皮肉な笑みを漏らした。
蓮司から離れられないのは、好きだから。それだけじゃない。吸血鬼みたいな家族のせいだ。
あまりにも苦しい日々だったから、蓮司がくれるわずかな甘さにすら、簡単に落ちてしまった。 たとえ、その甘みに、毒が混ざっていたとしても。
「宮沢凪佳?やっぱりお前か、このあばずれが!」
怒声が飛んできた。
凪佳が呆気にとられて振り返ると、落ちぶれてはいるが凶悪な顔があった。実の父親、柏木正雄だ!
父は借金に、ギャンブルに、酒に溺れ、トラブルを続けていた。兄妹四人は皆、彼に関わりたくない厄介者として避けていた。
まさか自分が最初に見つかるとは思いもしなかった。
慌てて逃げようとしたが、正雄は持っていた酒瓶を放り投げ、よろめきながら追いかけてきた。そして、彼女の腕を乱暴に掴む。「金はどこだ! 金をよこせ、このやろう!」
「離して!お金なんてないわ!」
凪佳は必死に抵抗したが、正雄に髪を掴まれた。「逃げるつもりか? お前を助けようとして母親は車に轢かれて死んだんだ!この疫病神が。お前は俺から妻を奪ったんだ、金で償うのが当然だろう!」
「な、何を……」
母の死は、凪佳の心の最も柔らかい部分を突き刺した。
心の痛みと驚愕で動きが止まった隙に、正雄が彼女のバッグを奪おうとし、同時に黒ずんだ太い腕を振りかぶった——
重い一撃が顔面に迫る。彼女は思わず目を閉じた。
だが……。
「ぐああっ!」
予想していた痛みは訪れず、代わりに正雄の苦悶のうめき声が耳に届いた。
凪佳が目を開けると、背の高い男が正雄の首を締め上げていた。
男は背を向けているため、正雄の喉元に食い込む手しか見えない。骨ばった指、手の甲に浮き出た血管からは、抗いがたい力が感じられた。
彼は全身を漆黒のスーツに包み、冷気すら漂うようなオーラをまとっている。研ぎ澄まされたばかりの名刀のように、強烈な威圧感を放っていた。
凪佳の心臓が高鳴った。男がわずかに振り返った瞬間、その整った横顔が目に飛び込んできた。
彫りの深い輪郭、高く通った鼻筋。切れ長の目は少しつり上がっており、典型的な女好きの相であるはずが、その瞳は氷のように冷たく、まともに見つめ返せないほどの鋭い光を宿していた。
雨の幕に遮られ、視界のすべてがぼやけている。
だが、颯真の顔立ちは鋭利な刃物のように、あまりにも鮮明に彼女の網膜に焼き付いた。
夢を見ているのかと思った。次の瞬間、男は平淡な口調で尋ねた。「怪我はないか?」
凪佳は一瞬呆然とし、慌てて首を横に振った。
颯真は軽く頷くと、汚いものに触れたかのように手を払い、正雄を解放した。
「てめぇ、ふざけんな――」
正雄は手首をさすりながら歯をむき出しにして怒鳴ろうとしたが、黒服の屈強なボディガードたちが大股で近づいてくるのを見て顔色を変えた。
正雄は捨て台詞を吐いて逃げ出した。「覚えてろ!ただじゃおかねぇぞ!」
……
颯真と共に小さなマンションに戻っても、凪佳はまだ現実感がつかめなかった。
(高嶺颯真が……本当に来た?)
一時間前に送った、たった一通のメッセージのために?
凪佳がしどろもどろに礼を言うと、室内には気まずい沈黙が流れた。
視線をさまよわせると、颯真がずぶ濡れであることに気づく。彼女は慌てて乾いたタオルを探すと言い、逃げるように浴室へ駆け込んだ。
颯真は彼女の背中を数秒見つめた後、室内の調度品に目を向けた。
狭いが、整っていて温かい。自然と思い浮かぶ言葉は――
家。
無意識に口元が緩んだが、本棚の一列すべてが栄養学の専門書であることに気づくと、薄い唇はすぐに一直線に結ばれた。
だが……。
颯真が本棚に近づき目を細めると、奥に隠された数冊の医学雑誌と、ゴムが黄ばんだ聴診器が見えた。
光の当たらない隅に追いやられたそれらは、彼女がまだ手放せない医療への夢を静かに物語っていた。
浴室で、凪佳は颯真を待たせてはいけないと新しいタオルを引っ張り出し、急いで戻ってきた。「高嶺さん、これーー」
言葉が途切れた。彼女は目を丸くし、口をつぐむ。
颯真が……
上半身裸だったのだ!
視界に入ってきたのは、男の広い肩、引き締まった腰、そして彫刻のように割れた腹筋だった。
彼の目に宿る、野生の獣のような鋭い光に、凪佳は圧迫され、視線を外すことすら忘れてしまった。
肌に残った水滴が首から胸元を伝り、シャツの生地に染み込んでいく。彼女もそれに目を奪われ、つい鎖骨のあたりまで視線を落としてしまった。
颯真の冷ややかな視線に射抜かれ、凪佳はハッと我に返った。
頬が一気に真っ赤になり、逃げようとした――が。
だが、颯真の方が早かった。彼は一歩踏み出し、彼女を壁際に追い詰める。
「あ、あの……」
心臓が早鐘を打つ。何か言おうとするより先に、頭上から男の低い声が降ってきた。「本気か?俺と結婚したいというのは」
話 3
颯真は凪佳より頭一つ分も背が高い。壁際に追い詰められた彼女の視線は、ちょうど彼の精緻な鎖骨に落ちていた。
圧が強すぎて息もまともに吸えず、凪佳は身じろぎしながら「ちょっと…離して」呟くように頼んだ。
「先に答えろ」颯真は尋常ではない強さで迫った。
凪佳はそっと目を閉じ、数秒だけ迷い、最後には歯を食いしばってうなずいた。
蓮司から逃げるには、もう選択肢がなかった。
彼女がうなずいた瞬間、颯真は半歩だけ身を引いた。凪佳は大きく息を吐いた。
彼は上半身裸のままソファに腰を下ろし、彼女が持ってきたタオルで当然のように髪を拭いた。 そのくつろぎきった姿は、彼女よりもはるかにこの部屋の主人らしかった。
だが凪佳の思考は三年前にさかのぼっていた。彼と初めて出会ったあの日へ。
あれは蓮司が段取った酒席だった。桐谷グループが航空分野へ参入するため、天才機長の颯真を特別に招いたのだ。
当時の彼は灰青色の航空制服に身を包み、その格好は着陸したばかりでそのまま駆けつけたようだった。
その気配は厳格で近寄りがたく、どこか禁欲的な印象をまとっていた――今の裸身を晒した姿とはまったくの別物だった。
酒席では、蓮司は彼に仕事の紹介を期待しながらも、一介の機長を内心では見下しており、態度もやけに高慢だった。
だが颯真は卑屈にも尊大にもならず、終始蓮司を無視したまま、宴が終わる間際にだけ凪佳の前へ来て、連絡先を交換したいと言った。
蓮司に気を遣った凪佳は戸惑った。けれど、彼女の愛はあまりに卑屈で、そして過剰で、蓮司にとっては忠犬のようにしか見えず、他の男に心が向くなど露ほども心配していなかった。
むしろ蓮司は、彼女を自ら颯真の方へ押しやったほどだ。
あのとき、颯真が凪佳を一瞥した眼差しには、怒気のようなものが宿っていた。まるで……まるで、その不甲斐なさに苛立っているようで。
二人は連絡先を交換した。
その後、颯真が話題にしたのは、二人の間にあった因縁についてだけだった――。
なんと彼の母と凪佳の母は親友同士で、互いの子供を許嫁にする約束まで交わしていたというのだ。
今、高嶺夫人は体が弱っており、自分の余命が長くないことを案じていた。そこで颯真に対し、一刻も早く凪佳と結婚し、骨の髄まで凍えるような実家から救い出すよう求めたのだ。
当時、凪佳の心は蓮司でいっぱいで、颯真からの申し出を、ほとんど考える間もなく断ってしまった。
それなのに、今は……。
いま思えば――あんな盲目な恋心など、ただの笑い話でしかなかった。
数分後、部屋のドアがノックされた。
誰かが颯真の着替えと書類を届けに来たようだ。
配送業者だろう、と凪佳は思った。
ただ、その配達員がきちんとしたスーツを着ているのが少々奇妙に感じられた。
颯真は悠然と服を着ながら、書類を凪佳に放り投げた。
我に返った凪佳が目を落とすと、それは婚前契約書だった。
契約書には、結婚後、凪佳は颯真の妻としての役割を全うすること、そして病弱な母にこの結婚が契約に基づくものであると悟られないようにすることが記されていた。
契約の甲斐として、彼は相応の報酬を支払う。その額、なんと月400万円。
この金額を見て、凪佳は驚きを隠せなかった。
機長である颯真の収入は決して低くないはずだ。
だが彼も所詮はサラリーマンだ。毎月400万円を捻出するのは容易なことではないだろう。
これほど高額な報酬を提示したのは、十中八九、かつて蓮司に受けた屈辱を晴らすため、見栄を張っているに違いない。
凪佳は彼から大金を受け取るつもりなどなかったし、ましてや一時の虚栄心のために借金を背負わせるような真似はしたくない。
彼女は意思を表示した。「他の条項には同意します。でも、報酬はいりません。 結婚したら仕事を探しますし……」
颯真の表情がわずかに曇った。
凪佳は途端に不安になった。
まさか颯真も蓮司と同じように、外で働くことを許さないつもりなのだろうか。
颯真は低い声で言った。「君が稼いだ金は君のものだ。俺が報酬を払うこととは矛盾しない」
凪佳はこっそりと彼を一瞥し、 心の中で深く嘆いた――。
(男という生き物は、どうしてこうも見栄っ張りで、自ら苦労を背負い込むのだろう)
彼女は弁解するしかなかった。「お金を受け取らないのは、主に私のプライドのためなんです。 その……あなたに囲われているなんて思われるのは嫌なんです」
「結婚する以上、契約だろうとなかろうと、君は俺の妻だ」 颯真は冷ややかな目で彼女を一瞥し、まだ拒む気配があるのを見て取ると、冷淡に言い添えた。「仕事を始めるなら、いろいろと物入りだろう。 丸腰で就職活動をするつもりか?まともなスーツ一着も買えないくせに」
凪佳は視線を落として自分の恰好を見やり、気まずそうに苦笑した。
まあいい。このお金はとりあえず受け取っておいて、機会があれば高嶺夫人に返せばいいのだ。
ようやく聞き分けがよくなったのを見て、颯真は婚姻届に必要な書類をさっさと記入するよう促した。
凪佳は慌ててその指示に従った。
一通りの手続きが終わると、彼は立ち上がり、帰る支度を始めた。凪佳も礼儀として見送ろうとした。
「一緒に来ないのか?」颯真はあからさまに不満げだった。
「そんなに急ぐんですか?」凪佳はおずおずと尋ねた。「まだ少し片付けたいことがあって……」
颯真はわずかに眉をひそめた。「三日だ」
「……わかりました」凪佳は俯き加減にうなずいた。
颯真は最後に一瞥をくれると、大股でアパートを出て行った。
三日という期限はあまりに短い。凪佳は一刻の猶予もなく、翌日にはさっそく、蓮司から買い与えられた品々の整理に取りかかった。
作業に没頭していると、突然、招かれざる客が訪れた。
颯真の秘書だと名乗る宮本陽沙という女性で、ボスの命令で引っ越しの手伝いに来たという。
凪佳はモデルのように背が高い彼女をまじまじと見つめ、困惑した――パイロットに秘書なんているものだろうか?
しかし人見知りな彼女はそれ以上突っ込まず、ただ笑顔で「ありがとうございます」とだけ言った。
陽沙は部屋に入るなり、眉をひそめ蓮司の贈り物ををけなした。「宮沢さん、元彼は相当なドケチね。こんな安物をプレゼントするなんて」
彼女は凪佳の手を引くと、嵐のような勢いで外へ連れ出そうとした。「さあ早く!まともな物を選びに行きましょう。 こんなガラクタを使わせてたら、私まで社長に皮を剥がれちゃうわ」
蓮司が買い与えた物はハイブランドではないにせよ、それなりの逸品ばかりだった。
しかし陽沙に言わせれば、颯真の目には「ガラクタ」に映るらしい。
とはいえ、一介のパイロットである颯真に、そんな派手な真似ができる財力があるのだろうか?
まさか、また見栄を張って無理をしているのでは?
陽沙の勢いに抗えず、二人はすぐにデパートへと到着した。だが入り口をくぐった瞬間、親密そうに寄り添う後ろ姿が目に入り、凪佳は頭を殴られたような衝撃を受けた。
それは蓮司と、ウェディングドレス姿の緒方澪智だった。