話 2
特別病室の中、机の上のスマホが絶えず震えていた。だが、傍らにいる1組の男女はそれに見向きもせず、激しく口づけを交わしていた。
「明彦お兄ちゃん、またお姉ちゃんからの浮気チェックだよ……私とお姉ちゃん、どっちの方が好き?」
女は色っぽい表情を浮かべていた。なんと彼女は、詩織の異母妹である榊原美咲だった。
有馬明彦は直接スマホの電源を切り、待ちきれない様子で彼女の服の中に手を滑り込ませた。
「もちろんお前に決まってるだろ、ハニー。榊原詩織みたいな退屈な女が、お前に敵うわけない。あいつが将来お前の家の株を手に入れるから付き合ってやってるだけだ」
美咲の目の奥に鋭い光が走った。「あの株は今、あのイカれたお母さんの手にあるの。榊原詩織が結婚したら渡されることになってるけど、榊原詩織は一生あの株を手に入れられないわよ」
明彦は興味津々で尋ねた。「どうしてだ?」
「もし榊原詩織が結婚する前に清原和音が死ねば、株はお父さんのところに戻ってきて再分配されるからよ」 美咲は悪意に満ちた笑みを浮かべた。「清原和音は白血病になったでしょ? 適合したドナーが誰だか当ててみて?」
詩織はドアを押し開けようとしていた手をピタリと止めた。嫌な予感が頭をよぎる。
「そう、私よ!」
美咲は得意げに笑い出した。「榊原詩織のバカは夢にも思ってないでしょうね。自分の母親に骨髄を提供してくれる親切な人の正体が、この私だなんて。私が提供に同意しなきゃ、あの母親はただ死を待つしかないわ。死んだら、お父さんに頼んで株を全部私に譲ってもらうの!」
「ハニー、お前は本当に天才だな!」
明彦は目を輝かせた。「それじゃあ愛しのお姫様、未来の王子様になる栄誉を俺にくれないか?」
美咲は甘えるように彼の胸を軽く叩いた。「私の体は、とっくにあなたのものじゃない。言わなくても分かるでしょ」
2人は情熱的に見つめ合い、抱き合って唇を貪り合った……
ドアの外で、詩織は血走った目で2人を睨みつけていた。喉の奥に血の味がこみ上げてくる。
全部嘘だったのだ!
明彦が口にしていた愛の言葉も嘘!
母が親切な人から骨髄提供を受けられるというのも嘘!すべては計算され、利用されていたのだ!
彼らが思い描く輝かしい未来は、血まみれになった母の屍を踏み台にして成り立つものだった!
絶対に許せない!
必ず代償を払わせてやる!
詩織は憎しみを込めて2人を睨みつけると、音を立てずにその場から離れた。
無菌室は上の階にある。
和音はその中で眠っていた。手の甲には点滴が繋がれている。骨髄破壊が終わった今、彼女の体は極度に弱りきっており、点滴だけで辛うじて生命を維持している状態だった。
詩織は透明な防護ガラス越しに母を見つめた。頭の中では、医師からのメッセージが何度もリフレインしていた。
もし移植ができなければ、和音は1週間もたない。
詩織はためらっている暇などなく、すぐに連絡先に入っている人たちへ電話をかけ始めた。
美咲が提供を続けることなど絶対にあり得ない。そして、頼みの綱だと思っていた明彦は……人間の皮を被ったクズだった。
他の人に助けを求めるしかない。
しかし、これだけ大勢の人がいる中で、和音に適合する骨髄を今から見つけるなど、そう簡単なことではない。
やがて、空が白み始めた。
連絡先の番号すべてにかけたが、詩織は何も得られなかった。
ドンドン。
鈍い音が響き、詩織は顔を上げた。和音はいつの間にかベッドから降りていた。分厚い防護ガラス越しにドアを叩きながら、詩織に向かって口元を吊り上げ、狂ったように笑っている。
ここ数年、周りの人間は和音を頭のおかしい女だと忌み嫌っていた。だが詩織にとって、彼女はずっと優しくて愛情深い母だった。
(でもお母さん、もう私を見ないで。)
(もう、どうにもできないみたい。)
詩織はよろめきながら後ずさりし、母の視線から逃れた。
死角まで下がっても、和音は無理な体勢で首を伸ばして彼女を見ようとした。自分に迫る死の運命など知らず、まるで能天気に笑い続けている。
詩織はもう堪えきれず、壁に寄りかかったまま力なくその場にへたり込んだ。顔を覆い、声を上げて泣き崩れた。
突然、バタバタと乱れた複数の足音が響き渡った。
詩織が涙でぼやけた視界の中で顔を上げると、数人の黒服の男たちが目の前に立っていた。「そこのお嬢さん、うちのボスがお呼びです。ご同行願えますか」
病院の下には、控えめながらも高級感が漂うカリナンが停まっていた。
後部座席には、隙のないスーツを着こなした長谷川彰人が座っていた。冷酷な眉間には怒らずとも人を威圧するオーラが漂い、長い指で時折膝を叩く動作が、今の彼の苛立ちを表していた。
その時、ボディガードが車の窓をノックし、恭しく頭を下げて言った。「旦那様、お連れしました」
話 3
榊原詩織は訳も分からないまま車に乗せられた。彼女は何が何だかさっぱりだった。
隣から低い声が響いた。「君が榊原詩織か?」
詩織はビクッと体を震わせた。
とても聞き覚えのある声だ。
顔を上げると、目の前の男は端正な顔立ちをしていた。太い眉の下にある目は鷹のように鋭く、思わず視線を外したくなるほどの威圧感があった。
人間離れした美貌の持ち主で、まとっているオーラもずば抜けている。
こういう人は、1度でも会えば一生忘れられないだろう。
詩織は彼に会ったことがないと確信していた。さっきの既視感は気のせいだったに違いない。
あれこれ考えながら、彼女は目を伏せて答えた。「はい。あなたは誰ですか?」
男は探るような目で彼女を値踏みして言った。「私は長谷川彰人だ。私の家は君の父親と婚約を交わしていてね。今、私がそれを果たす」
ーーなんだって?
詩織はどもりながら聞いた。「あ、あなたの言うことって、私と……結婚するってこと?」
「そう理解してもらって構わない」
詩織は完全に思考が停止した。ーー嘘でしょ、冗談だよね?
彰人は表情を変えずに彼女を観察していた。
彼の視線はとても鋭く、品定めするようで、まるで彼から隠し事は一切できないかのようだった。
直感が詩織に告げた。この男は危険だと。
彼女は居ても立っても居られなくなった。「あの……」
「風呂に入ってから、どれくらい経つ?」
男が突然声を出し、詩織の言葉を喉の奥に押し込めた。
彼女は目を丸くし、驚いて彼を見つめた。「え?」
「ひどい匂いがする」
彰人は淡々と言い放った。その言葉が女の子にとってどれほどの破壊力を持っているかなど、全く気にしていない様子だった。
詩織の顔は見る見るうちに真っ赤になった。
恥ずかしさ、気まずさ、様々な感情がこみ上げてくる。
彼女はそわそわしながら服の裾を引っ張った。服はしわくちゃで、雨に濡れ、病院の壁の白い粉もこすりつけていたので、確かに薄汚れて見えた……。
赤みは首元まで広がり、彼女は困惑して自分の靴の先を見つめたまま、硬直して身動き1つ取れなかった。
彰人は視線を外し、冷たい声で運転手に命じた。「麗水館へ戻れ」
詩織に拒否する隙も与えず、車はスピードを上げて走り出した。
麗水館は高級住宅街にあり、2階建ての豪邸が陽光を浴びてそびえ立っていた。
車を降りると、彰人はメイドに詩織を風呂へ案内させた。
先ほど毛嫌いされたからか、詩織はメイドが近づいてきた時、少し眉をひそめたように感じた。
彼女は気まずそうに口を開いた。「お風呂は自分で行きます」
メイドは手に持っていた清潔な服を彼女に渡し、数歩下がって言った。「2階の各部屋にはバスルームが付いています。東から数えて3番目の部屋以外なら、どの部屋を使っても構いません」
詩織はただ早くこの嫌悪される状況から逃れたくて、適当に頷き、服を抱えて早足で階段を上がった。
2階にはたくさんの部屋があった。彼女は階段に1番近い部屋のドアを何気なく押し開け、真っ直ぐにバスルームへと駆け込んだ。
服を脱ぐと、全身に残る赤い痕があらわになった。キスマークや噛み跡がびっしりと交差し、女の雪のように白い肌の上でひときわ目立っていた。
詩織は自分の体に痕が残っていることは分かっていたが、ここまでひどいとは思わなかった……。
突然鼻の奥がツンとし、彼女はこれ以上鏡の中の自分を見ることができず、シャワーの蛇口をひねった。お湯が涙と混ざり合って流れ落ちる。
それは彼女の大切な初めてだった。大好きな男に捧げたいと夢見ていたのに、結局こんな理不尽な形で失ってしまった。
相手がどんな顔をしているのかすら知らないのだ。
詩織は必死に肌をこすった。深い悲しみに沈んでいた彼女は、水音に紛れて微かなドアの開く音が響いたことに気づかなかった。
男の低いあざ笑うような声が響くまでは。
「榊原さんは、そんなに俺の部屋に入りたくてウズウズしていたのか?」